NHK交響楽団の知識
年表
○○は定期公演の回数を示す
戦前
1925年3月:山田耕筰が日本交響楽協会(協会)を設立
メンバーは映画館の楽士、東京六大学の管弦楽部員などを中心とするものであった
1925年4月26日〜5月:協会とハルビン在住のロシア人楽士を中心にした「日露交歓交響管弦楽大演奏会」を歌舞伎座などで開催
1926年1月24日:協会第1回予約演奏会。指揮近衛秀麿。曲目はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン交響曲第3番 (ベートーヴェン)|「英雄」他
1926年9月8日:近衛秀麿以下中心メンバーが協会を離脱、10月5日に新交響楽団(新響)の結団式
1926年10月22日:新響第1回研究発表演奏会
1926年11月26日:ラジオ放送初出演
以後約10年は、基本的に「定期公演が近衛、放送出演がヨゼフ・ケーニヒ(後ニコライ・シフェルブラット)」という役割分担がなされるようになる)
1927年2月20日:#1:定期公演開始
曲目はフェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」序曲、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト「イドメネオ」舞踊音楽、フランツ・シューベルト|シューベルト「交響曲第8番 (シューベルト)|「ザ・グレイト」、エドヴァルド・グリーグ|グリーグ「2つの悲しい旋律」。大正天皇崩御による服喪のため、1ヶ月繰り下げての開催。グリーグは大正天皇追悼の意を込めて演奏
1928年10月28日:#36:グスタフ・マーラー|マーラーの交響曲第1番 (マーラー)|「巨人」日本初演
1929年10月16日:#55:マーラーの交響曲第4番 (マーラー)|交響曲第4番日本初演
1930年5月28日:マーラーの交響曲第4番を世界初録音
1930年10月22日:#76:エフレム・ジンバリスト来演。1935年5月24日の#156にも出演
1931年6月17日:#92:ヨゼフ・シゲティ来演
1931年7月:コロナ事件
待遇改善を訴えた楽員17名に対し、近衛・新響が技術の未熟を理由に17名を解雇。解雇された楽員は、日本放送協会|JOAKが「コロナ・オーケストラ」として契約。「コロナ」は、世話人の堀内敬三が当時使っていたタイプライターの名前であった。後に「東京放送管弦楽団」と改称
1932年9月30日:#113:定期公演の会場が、この回より日本青年館から日比谷公会堂に変更
1934年10月17日:#144:エマヌエル・フォイアマン来演
1935年4月22日:#153:アルトゥール・ルービンシュタイン来演
1935年7月13日:新響改組
新響を組合組織に改組したい楽員と、現状維持を考えていた近衛が対立。結局、近衛とマネージャーが新響を追われるように退団する事となった。
1935年8月18日:日比谷公園野外音楽堂で、指揮者なしで改組記念演奏会を開く
1935年11月26日:貴志康一帰朝演奏会
以後、貴志は翌1936年4月までに定期出演やヴィルヘルム・ケンプとの共演を重ねたが、惜しくも早世した
1936年9月21日:ジョゼフ・ローゼンストック歓迎演奏会
新響は近衛の後任を全世界から捜し求め、国家社会主義ドイツ労働者党|ナチの影響で立場が宙に浮いていたローゼンストックを新常任指揮者として迎えた。この時、候補の中にはウィリアム・スタインバーグ、パウル・ブライザッハらの名もあった。以後、軟禁時期やアメリカでの活動時期を除いた約40年間、新響→日響→N響と密接に活動することとなり、楽員から「ロー爺」「ローやん」との愛称を贈られる事となった
1937年5月31日〜6月30日:フェリックス・ワインガルトナー夫妻来演
ウィーン国立歌劇場の職を辞してフリーな立場になっていたワインガルトナーは日墺協会と朝日新聞|東京朝日新聞の招きで来日。「新響は今日までに幾多のヨーロッパの交響楽団と立派に競いえるほどの技量を持っている」との感想と、弦セクションの強化・楽器の改善への苦言を残した
1937年3月24日:#177:ローゼンストック、ヴァイオリニストのアレクサンダー・モギレフスキーとの共演を拒否
1939年6月10日:初の海外(ソウル特別市|京城)公演。翌1940年6月に2度目の京城公演
1941年9月24日〜12月4日:#228〜#231:日本初の「モーツァルト・チクルス」
曲目は後期三大交響曲(交響曲第39番 (モーツァルト)|第39番、交響曲第40番 (モーツァルト)|第40番、交響曲第41番 (モーツァルト)|第41番「ジュピター」、「フィガロの結婚」全曲など
1942年1月28日:#232:ローゼンストック、リハーサル中に恥をかかされ、以後の演奏会を「病気」と称して休演
リヒャルト・シュトラウスの「ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ」を日本初演する予定であったが、チェリストのロマン・デュクソンがクレームをつけ、恥をかかされたローゼンストックともども練習所を去り、曲目もシューベルトの交響曲第3番 (シューベルト)|交響曲第3番に差し替えられた。ローゼンストックのキャンセルで、山田一雄、尾高尚忠が定期公演にデビュー。「ドン・キホーテ」も山田により、5月6日の#236で日本初演された
1942年5月1日:財団法人日本交響楽団(日響)と改称
内閣情報局を主務官庁、新響と日本放送協会を設立者とした。初代事務長としてN響の歴史を語る際に欠かせない一人、有馬大五郎が着任した。改称後は、邦人作品を毎度の定期公演に必ず一曲入れたり、邦人指揮者の盛り立てなども推進した。日本のオーケストラの歴史上、日本人のオーケストラ作品が最も多く演奏された時期でもあった
1944年2月17日:#253:ローゼンストック、この日をもって指揮台からしばらく姿を消す
ユダヤ系ということで改称後も各方面からの攻撃の対象になっていたが、有馬の援護でなんとか凌いでいた。しかし、この日の演奏を最後に活動を中止。以後、終戦まで軽井沢での事実上の軟禁生活を過ごす
1945年6月14日:#267:戦前・戦中期最後の定期公演(ベートーヴェンの交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九)
1944年10月から続いていた「ベートーヴェン・チクルス」の最終日。夏休み中に終戦を迎えた戦後
1945年9月14日:#268:戦後最初の定期公演(指揮・尾高尚忠。ベートーヴェン「英雄」他)
1947年1月23日:#283:レオニード・クロイツァー、闇の中でロベルト・シューマン|シューマンのピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲を弾き続ける
1948年10月18日:#300:アントン・ブルックナー|ブルックナーの交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番日本初演
1949年2月14日:#304:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチの交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番日本初演
1949年12月8日:#312:マーラーの交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番「千人の交響曲」日本初演(指揮・山田一雄)
当時のニュース映画を見ると、児童合唱を日比谷公会堂の2階席に置いての演奏だった
1951年2月16日:尾高尚忠急逝
公式の死因は「出血性灰白質脳炎」であるが、「歯科治療の際のペニシリン#問題点|ペニシリンショックで死んだ」という話もある
1951年8月1日:NHKの支援を受けてNHK交響楽団(N響)と改称
尾高の急逝の際、評論家の野村光一が「尾高を殺したのはNHKだ。NHKが経済面のみならず、運営そのものに関わることが多忙の日響を救う唯一の道」というコメントを毎日新聞に残している。実は、「N響」を初めて名乗ったのは1949年7月20日の放送で、当時は放送番組でのみの名称だった。
1951年9月13日:常任指揮者クルト・ヴェス着任
有馬がウィーンで作り上げた人脈をフルに生かし、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の指揮者だったヴェスを常任に迎えた。海外志向のあおりで、山田らの日本人指揮者はしばらくの間、定期公演の指揮台から締め出されることになった。次に日本人指揮者が定期公演の指揮台に立つのは、10年後の1961年3月13日の#421である
1951年10月20日:ユーディ・メニューイン|イェフディ・メニューヒン特別演奏会。指揮・近衛秀麿
1952年8月29日:ウィーンから客員奏者を招く
このうちの一人、ヨゼフ・モルナールは竹松舞らを育てた日本のハープ教育の第一人者である
1953年5月14日:#347:ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」に大賀典雄、モルナールらが出演
大賀は当時東京芸術大学音楽学部在学中。モルナールは前述のようにハーピストだったが、時々バス (声域)|バス歌手としても活躍した(大賀もバス歌手だった)
1953年10月9日:#350:ジャン・マルティノン来演。12月の「第九」公演まで滞在
招聘の候補としては、マルティノンの他にアルトゥール・ロジンスキ、さらに有馬の個人的願望としてヴィルヘルム・フルトヴェングラーの名前もあったが、当時ロジンスキーもフルトヴェングラーも体調が思わしくない時期だったため、マルティノン招聘に至った
1954年4月2日:ヘルベルト・フォン・カラヤン来演
今から思えばウソのような話であるが、当時の日本ではカラヤンのLPが出回りつつあった時期だったが、知名度は案外低かったと言われる。ヘルベルト・フォン・カラヤン#日本とカラヤン|日本とカラヤンも参照
1954年8月:常任指揮者ニクラウス・エッシュバッハー着任
割合印象の薄い常任指揮者であったが、ショスタコーヴィチの交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第10番の演奏を拒否(#362)するなど、エピソードもそれなりにあった
1955年5月23日:シンフォニー・オブ・ジ・エアーとの合同演奏会
シンフォニー・オブ・ジ・エアーはの後身である
1956年2月18日:ベンジャミン・ブリテン自作演奏会
皇紀2600年奉祝曲の依頼で書かれ不採用となったシンフォニア・ダ・レクイエムを作曲者自身の指揮で日本初演
1956年9月29日〜10月28日:第1回イタリア・オペラ公演
日本のクラシック音楽史に燦然と輝く公演。NHKの放送事業30周年事業として行われた。1976年の第8回まで続き、出演歌手も錚々たるメンバーであった。いわゆる3大テノールの面々も、初来日はこの公演であった
主な出演歌手:マリオ・デル=モナコ、ティート・ゴッビ、ジュリエッタ・シミオナート、カルロ・ベルゴンツィ、ルチアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、モンセラート・カバリェ、ニコライ・ギャウロフ、アルフレード・クラウス、レナータ・テバルディ
1957年3月29日:常任指揮者ヴィルヘルム・ロイブナー|ウィルヘルム・ロイブナー着任
クレメンス・クラウス門下で、ウィーン国立歌劇場で長年指揮した、決してスター性はないがウィーンの香りを身につけた職人気質の指揮者であった。夫人ルティルデ・ベッシュはソプラノ歌手で、しばしばN響の演奏会にも出演した。エディタ・グルベローヴァのウィーンでの先生でもある
1957年11月22日:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との合同演奏会
1959年2月13日:常任指揮者ヴィルヘルム・シュヒター|ウィルヘルム・シュヒター着任
岩城宏之や当時を知る楽員曰く、「相当なやかまし屋だったローゼンストックの、何十倍も怖い先生」。1957年にカラヤンが「N響との見合いのため」にベルリン・フィルに帯同させ来日。その後N響を徹底的に鍛え上げた
1959年5月1日:イーゴリ・ストラヴィンスキー自作演奏会
詳細はイーゴリ・ストラヴィンスキー#ストラヴィンスキー in JAPAN|ストラヴィンスキー in JAPAN参照
1960年9月1日〜11月1日:NHK放送開始35周年記念「世界一周演奏旅行」
68日間で、12カ国(インド→ソビエト連邦|ソ連→スイス→オーストリア→チェコスロヴァキア→ポーランド→ドイツ|西ドイツ→イタリア→ユーゴスラビア→イギリス→フランス→アメリカ合衆国|アメリカ)24都市で公演を行った。岩城、外山雄三らが率い、堤剛、当時16歳の中村紘子が帯同。中村は振り袖でピアノを弾かされることもあり、その際の着付け助手を岩城、外山がつとめた。ゲストソリストにディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、シューラ・チェルカスキー、パウル・クレツキが参加した。若手の楽員が多かったため、当時同じくヨーロッパ演奏旅行を目前にしていた近衛に「あんな若い者だらけでは」と嘆かせたが、N響の成功と裏腹に近衛の旅行は無残な結果となった
エピソードも多く、ルツェルンでのオットー・クレンペラーの突然の来訪などもあった(これがきっかけで、後に「クレンペラーN響来演」という話まで出てきた)。一方で、モスクワ公演のうち1回が天候不順でキャンセル。パリでの国連デーコンサートで当初出演予定のマウリツィオ・ポリーニがドライブ中に腕を冷やしすぎてキャンセル。さらに常任のシュヒターも、訪問先からの「日本人指揮者じゃないと客の入りが悪い」というクレームでロンドンとアメリカでの公演以外指揮する機会がなかった
1962年12月:いわゆる小澤征爾#「小澤事件」|「小澤事件」
1963年:ウィーン・フィルの第2ヴァイオリン奏者ウィルヘルム・ヒューブナーがゲスト・コンサートマスターとして来日
ウィーン・フィルに戻った後もヒューブナーは大の親日家として、勉強のためにウィーンに来た日本の音楽家の卵の面倒を見たという
1965年8月:常任制休止
1967年1月1日:マタチッチ、サヴァリッシュ、カイルベルトが「名誉指揮者」に就任
1969年:ウィーン・フィルのソロ・オーボエ奏者カール・マイヤーホーファーが客演奏者として来日
1973年:スウィトナーが「名誉指揮者」に
1975年:シュタインが「名誉指揮者」に
1976年:創立50周年
1977年:ローゼンストック最後の出演
1980年:コンドラシン来演
1982年:N響団友オーケストラ設立
1985年:マタチッチ、ローゼンストック死去
1986年:#1000:サヴァリッシュ指揮、フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン「エリヤ」。ブロムシュテットが「名誉指揮者」に
1996年:創立70周年 デュトワ、常任指揮者となり常任制復活 就任記念コンサートにてマルタ・アルゲリッチと共演
1998年:「音楽監督」ポストを創設。デュトワが着任。9月よりB定期をサントリーホールにて開催
1999年:3月の定期公演を原則的に廃止 12月、デュトワ指揮、高島勲演出、ルイージ・ダッラピッコラ|ダルラピッコラの歌劇「囚われびと」とガブリエル・フォーレ|フォーレの「レクイエム (フォーレ)|レクイエム」を上演21世紀
2001年:創立75周年 デュトワ指揮でカール・オルフ|オルフ「カルミナ・ブラーナ」、サヴァリッシュ指揮でフェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン「エリヤ (メンデルスゾーン)|エリア」を特別演奏会にて演奏
2002年:11月、ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場|キーロフ歌劇場管との合同でドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィッチ 交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番「レニングラード」を演奏
2003年:3月、新国立劇場にて準・メルクル指揮、リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー「ジークフリート (楽劇)|ジークフリート」を演奏。6月、デュトワは音楽監督を退任し名誉音楽監督に着任 #1490:音楽監督として最後の演奏はリヒャルト・シュトラウス|R.シュトラウス「エレクトラ」(演奏会形式)
2004年:3月、新国立劇場にて準・メルクル指揮、ワーグナー「神々の黄昏 (楽劇)|神々の黄昏」を演奏。9月、音楽監督にアシュケナージ就任、A定期を土・日開催に変更。10月、#1524:音楽監督就任記念定期において、アシュケナージが指揮棒を左手に刺し、後半のピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー 交響曲第4番 (チャイコフスキー)|交響曲第4番をコンサートマスターの「弾き振り」で演奏するというハプニング。
2005年:5月、韓国公演を予定していたが、反日デモにより中止。10月、予定を変更してサヴァリッシュが定期公演に客演予定であったが、体調不良によりキャンセル。
2006年:創立80周年 6月、記念演奏会でアシュケナージがヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第20番の弾き振りをする予定であったが、指の不調により指揮のみとなる。8月、創立以来初となる吹奏楽を「N響ほっとコンサート」にて演奏。#1576:創立80周年記念定期において、死去した岩城宏之に代わり若杉弘と外山雄三の2人が指揮。
2007年:4〜6月、サントリーホール改修工事のためB定期を休止 その間、東京文化会館公演を開催。
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フェルディナント・ライトナー (1976年〜1990年) ギュンター・ヴァント(1979年、1982年、1983年。1986年はキャンセル) エサ=ペッカ・サロネン(1990年、2002年他) エフゲニー・スヴェトラーノフ(1993年〜2000年) アンドレ・プレヴィン(1995年、1998年、2007年他。2001年はキャンセル) スタニスラフ・スクロヴァ...
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