ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の知識
指揮者たち
現在までにウィーン・フィルの指揮台に登場した主な指揮者は、以下の通りである。
客演指揮者
ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者出身である。かのハンス・リヒターもかつてウィーン・フィルのホルン奏者であった。
一時期ウィーン国立歌劇場の総監督を務めたこともあり(シャルクと共同)、作曲家、指揮者としてウィーン・フィルとの絆は極めて強かった。1944年ウィーン・フィルはシュトラウス80歳記念の祝賀行事を催している。同時期にラジオ放送のためにシュトラウスの主要曲のほとんどが録音され、現存している。また、ウィーン・フィルと共に「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」全曲を演奏するシーンがニュース映画のためフィルム収録されており、その歴史的に非常に貴重な映像を現在も観ることができる。
ウィーン・フィルが楽劇『サロメ (オペラ)|サロメ』を演奏・上演する際、ヨカナーンの首が斬られる時にコントラバス全員が足踏みをして音を鳴らすという伝統があり、今も行われている。
家庭交響曲終楽章のクライマックスでのティンパニのニ長調の音階は、ウィーン・フィルの楽員が考案したものである。スコアには記載されていないが、パート譜には作曲者の了解済みで記されており、現在もそのように頻繁に演奏されている。
シュトラウスと同時期にウィーン国立歌劇場の総監督を長らく務め、楽員にとって厳しくも温かい師のような存在であった。戦前に初めて交響曲をウィーン・フィルでSP録音した指揮者でもある。死の床で後継者クレメンス・クラウスに「私のウィーン・フィルをよろしく頼む」という有名な言葉を遺してこの世を去った。
シュトラウス同様、指揮者としてしばしばウィーン・フィルの指揮台に立った。晩年身寄りがなく生活苦に陥った老作曲家に、ウィーン・フィルは救いの手を差し伸べた。名誉会員に推挙し、年金を与えたのである。プフィッツナーは歌劇「パレストリーナ」の自筆譜を贈ることで感謝の意を表した。
1933年から1937年にかけて楽団長フーゴー・ブルクハウザーの招きで頻繁に共演した。戦前のザルツブルク音楽祭で指揮した「ファルスタッフ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「フィデリオ」などは現在でも語り草になるほどの伝説的名演であった。両者の関係は周囲の予想に反して概ね良好であったが、ある時ブダペストでの公演で、モーリス・ラヴェル|ラヴェルの「ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ」第2組曲で自ら振り間違えたために演奏が大きな瑕が生じ、そのことに腹を立てた癇癪持ちのマエストロに、彼よりさらに年長のコンサートマスター、アルノルト・ロゼ|アルノルト・ロゼーが反発し、終演後の指揮者の起立の合図に従わないという事件があった(トスカニーニはロゼーを大変尊敬しており、ロゼーの誕生日に花束を持ってリハーサルに登場したこともあったという)。
共演回数は多くないが、その濃厚な芸風と楽員に対する独裁的な態度、リハーサルでの非常に長いお説教で楽員に強烈な印象を与えた。メンゲルベルクとのアムステルダム公演で、ベートーヴェンの「交響曲第5番 (ベートーヴェン)|運命」をロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団|アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の所有するパート譜で演奏したとき、楽譜に「ここでジプシーの話が始まる」と記されており、実際練習中にメンゲルベルクはその箇所でジプシーの話を始めたという。また、楽員の態度なども非常に口うるさく、名奏者レオポルト・ウラッハ|レオポルト・ヴラッハが休符の間にクラリネットを膝に立てて置く癖が気に入らず注意したが、「先生、私はあなたが指揮をなさらない時、指揮棒をどう持つべきかとやかく言うつもりはありません」とやり返されたという。
メンゲルベルクはしばしば「あなた方は今よりももっとマーラーを弾くようになることでしょう」と語っており、その予言は戦後現実のものとなった。
巨人の足取りを想わせる悠揚迫らぬ芸風、素朴で温かな人柄、大変な練習嫌いなどでウィーン・フィルに最も愛された巨匠の一人(ウィーン・フィルも練習嫌いなことで有名)。クナは楽員たちと個人的に親しく付き合い、練習の合間や演奏旅行の列車の中で楽員とカード遊びに興じたという。大病を患った後、晩年にウィーン・フィルを指揮した演奏会は、その度ごとに告別の雰囲気が漂ったというが、その演奏会のVTRが近年発掘されてDVDとなり、大きな話題を呼んだ。
共演回数は決して多くないが(ウィーン・フィルのギャランティーが他のオケより少ないことも理由の一つだったようだ)、晩年に近い1968年のウィーン芸術週間では連続して5回のコンサートを開き、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーなどで数々の名演を残した(その時の実況録音は全てCD化されている)。
クレンペラーは度重なる大病、怪我により晩年体が不自由になり、手がうまく動かせないため、アンサンブルはオケの自発性に任された。上記ウィーン芸術週間でのモーツァルトの管楽セレナード (モーツァルト)|セレナード第12番「ナハトムジーク」では、ファゴット奏者による客席には聴こえない程度の低音をアインザッツの合図とするよう木管奏者たちが申し合わせており、実際そうされたという(録音にも残っている)。
ウィーン・フィルとの多数の録音で知られるとおり、生涯を通じ音楽的にも精神的にもウィーン・フィルと深く結ばれた指揮者であった。1907年に初めて指揮し、ウィーン移住後の1930年代には頻繁に共演する。1938年にナチスの魔の手から逃れるためにアメリカへ亡命し、1947年エジンバラ音楽祭にて両者は感動的な再会を果たす。以後1960年師マーラーの生誕100周年記念演奏会で最後の指揮を執るまで、たびたびワルターはウィーンを訪れることとなる。ワルターの死後、遺言に従いウィーン・フィルはニューヨーク・フィルハーモニックと共にワルターの遺産相続人となった。ちなみにワルターは、師マーラーの交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番ニ長調の初演をウィーン・フィルと行っている。
70歳代になってから定期演奏会の常連指揮者となる。クナッパーツブッシュ同様、楽員から「偉大な老紳士」として敬愛された。練習中あらかじめオケが危なくなりそうな(そして実際に危なくなる)箇所についてスコアの端を折っておき、チェックしながら練習をつけていくのを常とした。晩年リウマチに苦しみ、長時間かけて舞台の端から指揮台まで杖をつきながら歩いていったが、ひとたび指揮台に上がるとシューリヒト特有のカリスマ性、輝かしい生命力が溢れ出て、楽員たちを感動させたという。ウィーン・フィル初のアメリカ公演におけるアントン・ブルックナー|ブルックナーの交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番は、シューリヒト自身も後に語るように奇蹟的な名演と言われている。
ワルターより1歳、シューリヒトより5歳年長の老巨匠だが、80歳を過ぎてからウィーン・フィルに招かれ、デッカ・レコード|デッカに多数の録音を残している。レコーディング中、昼を過ぎても練習を続けているので、オーケストラの幹部がメンバーは疲れているので休ませてもらえないかと頼んだところ、モントゥーは「もし誰かが疲れているとしたらそれは私だ。私は一番年寄りだからだ。そして私は疲れていないし、誰も私より年を取っていない」とフランス語で呟いたという。なお、うるさ型のオケとして有名なウィーン・フィルだが、モントゥーに対しては比較的従順であり、「ウィーン・フィルはリハーサル嫌いだが、モントゥーのもとでは喜んで演奏する。」と言われた。
エーリヒ、カルロスと親子2代にわたりウィーン・フィルを指揮している。1954年にデッカに録音したリヒャルト・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」はウィーン・フィル初のレコード大賞を受賞する。ウィーン・フィルの初のアメリカ演奏旅行の同行指揮者だったが、クライバーが直前に急死したため、シューリヒトおよびクリュイタンスに代わった。
R・シュトラウスやワーグナーを得意とするオペラ指揮者で、むしろウィーン交響楽団との録音で知られる。
1951年のザルツブルク音楽祭、1955年のウィーン芸術週間などで共演。ストコフスキー自身の編曲によるヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハの作品やモデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキーの「展覧会の絵」などを指揮し、楽員に強い印象を与えた。
1955年のザルツブルク音楽祭でフルトヴェングラー記念演奏会を指揮している。リハーサルを好まず、本番で即興性を発揮する様は、楽員になにがしかクナッパーツブッシュのそれを思い起こさせたという。
滅多に共演することはなかったが、ベートーヴェンの「交響曲第3番 (ベートーヴェン)|英雄」やグスターヴ・ホルスト|ホルストの「惑星 (組曲)|惑星」などをEMIに録音している。いずれも名演とされているが、なぜか世に出ることは少ない。
モーツァルトまたはハイドンの協奏曲2曲と交響曲1曲というプログラムで、指揮とピアノを担当するコンサートを度々行い、戦前から戦後にかけてザルツブルク音楽祭での恒例行事となった。
ウィーン・フィルとは非常に仲が悪かったらしく、滅多に共演しなかった。ただし、このコンビがEMIに録音したブラームスの交響曲全集は不世出の名演とされている。
古典派の名解釈家として楽員に尊敬された。特にベートーヴェンでは映像も残っており、フィラデルフィア管弦楽団とのコンビにより培われた風評とはまるで異なる、真摯な大家の姿が確認できる。録音は「交響曲第5番 (ベートーヴェン)|第5」が実況盤としてあるが、当時の指揮者陣のいいとこどりをしたような名演といえる。
自作の交響曲第2番 (ハチャトゥリアン)|交響曲第2番や「ガイーヌ」をデッカに録音している。「ガイーヌ」のレコーディング・セッションで、ハチャトゥリアンがあまりにも長い時間注文をつけてはやり直しをさせていたので、夜のオペラ公演に間に合わなくなることを危惧した楽団幹部が、あと1回きり演奏することで終わりにするよう頼んだところ、セッション終了後「私はいつも指揮者は将軍でオーケストラは兵卒だと思っていたが、ここではオーケストラが将軍で指揮者が兵卒なんだね」と語ったという。作曲家としてだけではなく統率力が非常に見事な指揮者である。
シカゴ交響楽団を徹底的に鍛え上げた、非常に練習の厳しい指揮者であるが、ウィーン・フィルに対してはほとんど何も言わなかったという。R・シュトラウスの交響詩、ブラームスのハンガリー舞曲|ハンガリー舞曲集、ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディのレクイエム (ヴェルディ)|レクイエムなどデッカへの一連の録音をCDで聴く事ができる。
ウィーン国立歌劇場総監督に2度就任したこともあり、ウィーン・フィルとの関係は特に親密だった。練習の時の姿勢は頑固おやじそのもので団員との摩擦も多少はあったが、それでも団員からの信頼は絶大だった。1967年にはウィーン・フィル創立125周年を記念して名誉指揮者の称号も得ている。また両者のコンビは日本でも大人気を得て、来日の度にヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィルと並ぶ程センセーションを巻き起こした。このコンビによる録音も数多く、中でもベートーヴェンの交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番「田園」とモーツァルトのレクイエム (モーツァルト)|レクイエム(いずれもドイツ・グラモフォン)、ブルックナーの交響曲第4番 (ブルックナー)|交響曲第4番、ヴィルヘルム・バックハウス|バックハウスと共演したブラームスのピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第2番(いずれも英デッカ)などは、今でもこれらの曲を代表する名盤として高く評価されている。
ウィーン・フィルを指揮して初のベートーヴェンの交響曲全集をデッカに録音する。シュミット=イッセルシュテットはウィーン・フィルの常連指揮者ではなかったが、プロデューサーで息子のエリック・スミスの力によりこの組み合わせが実現したと言われている。結果ウィーン・フィルの美感が十二分に発揮された名盤が誕生し、この長い名前(本名はハンス・シュミットで、ありふれた名前であったため、母方の姓イッセルシュテットを付け加えた)の指揮者が広く知られるようになった。
驚異的な記憶力と強烈な人間的な魅力により楽員の絶大な支持を集め、指揮者として初めてニコライ記念メダルが贈られた。総譜の隅々まで写真のように精確に記憶しており楽員をたびたび驚かせたが、ザルツブルク音楽祭での「エレクトラ」の練習中に、中断して手を目の前に当てて物思いにふけるミトロプーロスを、ある奏者が「彼は今ページをめくっている」と言ったという。
有名指揮者たちの陰に隠れがちだが、戦後の混乱期にウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場の再建に尽力した功績は大きい。しかし、たびたびクリップスは楽員たちの悪戯やからかいの対象にされたという。
1955年にモーツァルトの交響曲第35番 (モーツァルト)|ハフナー交響曲、R・シュトラウスの「ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン」、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲、「ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ」第2組曲で初共演して以来、エレガントな物腰と紳士的な態度がウィーン・フィルから好かれ、たびたび客演する。アメリカ・ツアーの際にブラームスの交響曲の練習で、クナッパーツブッシュがよくそうしたように「あなたがたはこの曲を知っていますね。私もよく知っています」と言って帰ってしまった。その晩のブラームスの演奏は非常に美しいものであったと言う。
戦後すぐウィーン・フィルの演奏会にヴァイオリニストとして彗星のごとく登場し、のちに指揮者としても迎えられる。その際のプログラムは彼の独奏によるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の弾き振り、およびチャイコフスキーの交響曲などであった。
若い頃フルトヴェングラーの後継者と目され頻繁に共演していたが、やがて疎遠になる。バーンスタインが登場する以前にウィーン・フィルにマーラー演奏の機会をしばしばもたらした。
1950年代初頭に十八番のイーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキーの「春の祭典」を引っさげて登場した。ウィーン・フィルが1920年代にシャルクの指揮で初めて同曲を演奏したときは、散々な出来栄えでスキャンダルになってしまったが、数年後にクレメンス・クラウスが指揮したときは、絶え間なく変化するリズムの効果を失わずに譜面の変拍子を単純な拍子に書き換えて演奏したため、成功したという。
1960年代初頭にヴィルヘルム・バックハウス|バックハウスとのロベルト・シューマン|シューマンのピアノ協奏曲 (シューマン)|協奏曲の録音で、ウィーン・フィルを指揮したが、練習中に付点音符のリズムについてオケに注意すると、コンサートマスターのヴィリー・ボスコフスキーに「我々は重箱の隅をほじくるのは好きじゃない」と言われたという。以降二度と両者が共演することはなかった。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ作品を得意としたが、通常のレパートリーでも並々ならぬ水準を実証している。
1947年ザルツブルク音楽祭で共演以来、度々客演していた。50年代、彼の厳格なリハーサルに対して楽員との摩擦がおき、疎遠になったこともあったが、のちのザルツブルク音楽祭の成功や聴衆の支持、高い知名度により、1960年に急逝したミトロプーロスの後継者として、夏季公演の首席指揮者へと迎えるべく重要視されていた。しかし、病により惜しまれつつ1963年、48歳の若さで早世。オペラやコンサート・ライブのいくつかがCD化されている。
ハンガリー出身の指揮者で優れた演奏を聴かせたが、これからという時に客演先のイスラエルで水難事故のために亡くなる。代表的なレコーディングはドヴォルザークの「交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|新世界より」。ほかにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト、フランツ・シューベルト|シューベルトやヨハネス・ブラームス|ブラームスの交響曲などで有名な録音が残されている。そのうちの「ハイドンの主題による変奏曲」は、録音を完成させずに急逝した指揮者を偲び、最終変奏がオーケストラだけで演奏された。
オーストリア、ザルツブルク生まれの戦後音楽界の帝王と呼ばれた巨匠。ウィーン・フィル名誉指揮者。カラヤンはナチス党員だったために戦後演奏活動を禁止されたが、その間EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグに見出され、1947年にベートーヴェンの交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九で録音を開始した。その後もウィーン・フィルと数多くの録音をしている。また、1950年前後にはカラヤンの指揮でモーツァルトのオペラの公演を何度も行い、人気を博した。1960年代前半まではかなり高い頻度で指揮をしていたが、カラヤンのウィーン国立歌劇場辞任に伴ない、ウィーンフィルとの関係も疎遠になった。
後年長年君臨したベルリン・フィルとの仲が険悪になるにつれ、再びウィーン・フィルとの共演を増やしていった。ベルリン辞任後の急逝がなかったら、膨大なレパートリーの大半をウィーン・フィルと再録音する予定だった。
非常に厳格なリハーサルで知られ、楽員からは必ずしも評判が良くなかったが、戦前、戦後を通じてたびたび客演している。
オーケストラから完全に軽視されており、代打要員として扱われた。最晩年にようやく尊敬を集め、ベームの死後に追悼公演などを託された。ヨッフム自身が「手なずけるのに時間がかかった」旨を告白している。SP時代のアントン・ブルックナー|ブルックナーの交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番などが残っている。
名誉会員。1966年のセンセーショナルな定期演奏会デビュー以来、相思相愛の関係で結ばれる。モーツァルトのピアノ協奏曲の練習で、楽員に「モーツァルトはあなたたちの国の人間です。あなたがたは私にモーツァルトの演奏法を教えてくださらなければなりません」と語っている。一方1970年代に集中的にマーラーの交響曲を取り上げ、マーラー嫌いで有名だったウィーン・フィルを開眼させたと言われている(ただしワルターやクーベリックも頻繁にマーラーを取り上げたので、これを否定する楽員もいる)。
「ニーベルングの指環」の世界初録音で一躍有名になり、その後もオペラを中心に数多くの録音を残しているが、両者の関係は必ずしも良好とはいえなかった。ウィーン・フィルの当時の楽員にショルティをほめる者は少なく、「レコード会社の関係で組んでいただけで、カラヤンやベームのように親密だったわけではない」と言う楽員もいる。ショルティの側も自らの緻密な音楽作りとは相反する楽団のありようについては批判的であり、自伝においても不満をもらしている。とはいえショルティとウィーン・フィルの共演回数は多く、ツアーにも何度も起用されている点、ある意味腐れ縁であったとも言えよう。
名盤として誉れの高いヨハネス・ブラームス|ブラームスの交響曲全集を初めいくつかの録音をしたが、レパートリーを限定して指揮するジュリーニの性格上、ウィーン・フィルの指揮台には上る事は少なかった。
著名なヴァイオリニストで、晩年は学生によって編成されたカメラータ・ザルツブルクの指導に力を入れた。ウィーン・フィルに対してもあたかも学生を指導するかのように指揮したため(指揮棒を持たず手をひらひらさせるだけ)オーケストラ側が苦労したという。しかし、復古的演奏の盛んな時代に、ブルーノ・ワルターなどの衣鉢を継ぐスケール大きなヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト演奏で楽員に大きな印象を残した。演奏の最中、指揮を中断して右手で総譜|スコアを捲るくせで有名。
ベーム没後に重用され、ドヴォルザーク以外にもブラームス、ベートーヴェンなど古典派の指揮で実績を残した。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団|ゲヴァントハウス管弦楽団仕込みの楷書体の音楽作りが、いま一つオーケストラの性に合わなかったようだが、響きの美しさは何にも替えがたかったといわれている。ノイマンはウィーン・フィルの定期演奏会に招かれることを終生大きな誇りとしていたという。
この稀代の天才指揮者とウィーン・フィルは理想的な組み合わせと思われたが、クライバーの気難しさ、ガラスのような繊細さゆえに両者の関係は決して平坦なものではなく、有名な「テレーズ事件」によって共演が途切れた時期もあった。1992年クライバー同行によるウィーン・フィル来日公演が企画されたが、クライバーの病気によりジュゼッペ・シノーポリ|シノーポリに代わった。1994年にクライバーがウィーン国立歌劇場と来日した際は、ウィーン・フィル公演の方はなぜか指揮者がショルティであった。
古くから度々共演してきたが、むしろウィーン交響楽団と密接な関係を結んでおり、ウィーン・フィルからはいささか軽視されていた感がある。晩年は楽員の尊敬を集め急接近したが、時既に遅く、病気のために引退してしまった。
テンシュテットは唯一回ザルツブルク音楽祭で、マーラーの交響曲第10番 (マーラー)|交響曲第10番からアダージョと、ベートーヴェンの「交響曲第3番 (ベートーヴェン)|英雄」を指揮した。このあくの強い両者はリハーサルで完全に対立し、以降の共演も予定されていたレコード録音も全て中止となった。
ウィーンで学んだアバドは、1960年代から度々ウィーン・フィルに客演し、国立歌劇場音楽監督就任後は実質の首席指揮者となった。この間マーラー、ブラームスやウィーン楽派など名演が多かった。しかし、その後彼の音楽監督辞任とベルリン・フィルへの転身でのごたごたで両者の関係は解消された。しかしアバド自身はウィーンに未練があるのか、ことあるごとにウィーン・フィル以外のオーケストラとムジークフェラインザールで演奏会を行っている。
ウィーン・フィルの名誉会員。1970年代から定期的に客演する。当初は「ボクサーのようだ」と批判されていたが、今ではウィーン・フィルに招かれる指揮者の中では最も密接な関係にあり、事実上の首席指揮者扱いを受けている。楽団からの提案でフランツ・シューベルト|シューベルトやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルトを録音した。他にもメダルやリングなど楽団から数々の贈呈を受けた。コンサートマスターのライナー・キュッヒルと蜜月の関係でもある。2008年にはこのコンビと4回目となる来日が決まっている(国立歌劇場の公演の指揮も小澤とともに担当する)。またウィーン・フィルの楽団員が関わるイベント(東京オペラの森、PMF、ホフムジークカペレ)にも頻繁に参加している。
アメリカ人として初めてニューイヤーコンサートを指揮。ボスコフスキーと同じく、ヴァイオリン片手に指揮する姿を見せた。1982年にウィーン国立歌劇場総監督に就任。辞任後は冷却期間を経て定期へも復帰する。かつて批判された「小節を空振りしてから演奏を始める」傾向が近年はなく、両者が密接な関係にあることがわかる。
奏者の自主性を重んじる姿勢とメロディ重視でバランス感覚に富む彼の音作りは、ウィーン・フィルと非常に相性がよく、定期演奏会の常連になっている。特にリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品は名演ぞろいだ。
ウィーン生まれのピアニスト兼作曲家。1991年に、モーツァルトのディヴェルティメントK.138、ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第20番K.466、グルダ自作の「コンチェルト・フォー・マイセルフ」(ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルとも演奏している)の弾き振りを披露し、大きな話題を呼んだ。コンサートマスターのライナー・キュッヒル以下ウィーン・フィルのメンバーが、神妙な面持ちでグルダのサンバに付き合う様子はかなりの見物であったといわれている。
80歳を過ぎたあたりから密接な関係を結ぶようになったフランス人指揮者。往年のミュンシュを思わせる、老齢を感じさせない精力的な指揮ぶりで楽員をも圧倒している。2008年には、引退を表明していても初のフランス人指揮者として、史上最高齢で2008年のニューイヤー・コンサートを指揮した。
レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェクという異色のレパートリーを録音し、一躍有名になる。絶賛の声が高いコンビだが、コンサートの客演回数はあまり多くない。オペラの方でかつては優れた名演を聴かせた。
このウィーン出身のユダヤ系指揮者は、むしろ国立歌劇場のオペラであくのないさっぱりした表現により評価されていた。モーツァルトの「フィガロの結婚」では晩年に自らチェンバロも担当し、幕間に退屈なのでピアノソナタ第11番 (モーツァルト)|ピアノ・ソナタイ長調のテーマを冗談で弾いて喝采を浴びた事がある。
1960年代・1970年代頃に、楽団員からクナッパーツブッシュ亡きあと最高のワーグナー指揮者と言われ、好感を持たれたらしい。その後もたびたび指揮をしている。むしろウィーン交響楽団との仕事が多く、ウィーン・フィルへの登場回数は伸びなかったが、アントン・ブルックナー|ブルックナーやカール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバーを録音している。
晩年限られた期間であったが指揮者、ソリストとして共演してきた。異色のコンビだが、自身が一歩引いたスタンスを取ったため、関係は良好であった。自身がチェロ独奏を受け持った「弾き振り」のコンチェルト演奏では、「指揮者なし」としてオーケストラに自発的に演奏させた。
現国立歌劇場の音楽監督。ウィーン・フィルとの共演は、ザルツブルク音楽祭の「コジ・ファン・トゥッテ」で代役として登場した1966年に遡る。その後ムーティ、メータ等とともに長年の共演によって、楽団ともお互いの信頼が厚く定期の他、音楽祭や演奏旅行にも同行している。2002年のニューイヤーコンサートは大成功し、そのCD・DVDはベストセラーにもなった。
ベルナルド・ハイティンク|ハイティンクの代役で、日本人として初めて定期演奏会の指揮台に立った。その際、ウィーン・フィルの指揮の機会を得たことで、他のオケを振るときのギャラの提示額が上がるぞとウィーン・フィルの楽員に言われ、実際にその通りになった、と自著で記している。
1976年のザルツブルク音楽祭で代役として指揮している(フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドンの交響曲第92番 (ハイドン)|交響曲第92番『オックスフォード』、ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキーの交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番)。
異色のコンビで方向性が合致しないかと思われたが、解像度の高いアプローチながら楽団の特性を打ち消すことはなく、楽員から尊敬を得ている。アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク、バルトーク・ベーラ|バルトーク、グスタフ・マーラー|マーラーなどがコンサートのメインだが、一方でハイドンなど意外なレパートリーも披露している。指揮者ブーレーズのしたたかさはウィーン・フィルの演奏において確認できるといっても過言ではない。ドイツ・グラモフォンでは、巨匠不在の時代における補充の意味で多くの録音を行っている。2007年で一応引退を表明しているが、2008年以降も予定が入っている。
インド人ながらウィーンで指揮をハンス・スワロフキーに学んだメータは、1959年にこの楽団でデビューして以来、ほぼ毎年のように定期の指揮台に立つ主軸の指揮者である。ウィーンの伝統を大切に守る反面、個性味や音楽的な主張に乏しいという批判が評論家からは多い。ただし定期会員からの信頼は絶大で根強い人気がある。ちなみに現役指揮者の中でこのオーケストラと最も長く仕事をしている間柄でもある。
1970年代にデビューしたとき、ウィーン交響楽団の一楽員(チェロ奏者)である点や自己主張の強さから決裂してしまう。近年の関係は良好で、モーツァルトを中心に衝撃的な解釈を披露している。楽団は古典派の指揮をほとんどムーティかアーノンクールに託している。
古くからの定期演奏会の常連であるが、コンサート、録音において印象的な仕事はまだ残していない。
デビュー当時は極めて高く評価されて、モーツァルトやブラームスの交響曲全集等数多くの録音をし、コンサートにも度々登場したが、現在は招かれる事もなく途絶した。
近年緊密になり、定期の他、ザルツブルクのオペラ公演の指揮なども任せられるようになった。2009年のニューイヤーコンサートの指揮が内定している。
アーノンクールと同じく古楽器派の旗印である。プローベでまるで漫才師のように楽員を笑わせながら、スムーズに進行するので楽員にはとても喜ばれているという。
イタリア出身の指揮者兼作曲家。ウィーン・フィルの楽員からは必ずしも歓迎されてはいなかったが、CD録音では高く評価されていた。1992年(ウィーン・フィル創立150周年)にカルロス・クライバーの代役として、事実上コンサートでの初共演となった日本公演は毀誉褒貶半ばした。
巨匠不在の時代のピンチヒッターとして指揮者陣に組み入れられたが、近年マーラーの演奏などにバーンスタインの後継者としての頭角を現わしている。
典型的な合唱指揮者であるため、バッハのマタイ受難曲などの宗教合唱曲などで客演。
マリインスキー劇場の公開性を推し進めて近年特に注目されている指揮者。1998年のザルツブルク音楽祭初共演では、ゲルギエフの野性味あふれるドライブにオーケストラ側が一目惚れし、以降重用されている。ショスタコーヴィチやチャイコフスキーなどお国もののレパートリー以外にヨハン・シュトラウスなども披露している(一時はニューイヤーコンサートへの登場も噂された)。
首席指揮者の候補格で、日本においても披露されたベートーヴェンの交響曲全集など、旧時代と新時代が融合したような鮮烈な出来栄えであったが、ベルリン・フィルの常任指揮者となって以降は共演も限定されている。
コンサートよりもオペラの方に軍配が上がり、ザルツブルクでのR・シュトラウスの「ばらの騎士」や、国立歌劇場でのワーグナーの「ローエングリン」など好評を得ている。
定期演奏会に数回登場しているが、ドヴォルザークのレコーディングを残して近年は関係が疎遠である。
レコーディングにおいてはバイエルン放送交響楽団やロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団との方が良い結果を残す傾向がある。2006年のニューイヤーコンサート初登場では選曲のよさ、フレッシュな音楽作りで大成功を収めた。
ドイツの若手・中堅指揮者の中核としてウィーン・フィルにおいても重用されている。オペラ劇場の指揮者としての腕前も確かだが、コンサート指揮者としてもR・シュトラウス、ブルックナー、ベートーヴェンなどスケールの大きなドイツ物を得意としている。フルトヴェングラーを大いに尊敬し、骨太の硬質な響き、ドラマティックで雄大な音楽作りは、往年のドイツの巨匠を彷彿とさせる。
久しぶりにオーストリアから現れた期待の星として、若くから将来を嘱望されて来たリンツ生まれの指揮者。30歳にしてテンシュテットの後を継ぎロンドン・フィルの音楽監督に就任。その後チューリッヒ歌劇場、クリーブランドを歴任。ウィーン国立歌劇場でも実績をあげ、ついに小澤征爾の後任として次期音楽監督の座を得た。ウィーンフィル定期への登場は1998年と遅いが、これを成功させ地保を固める。楽員に先輩・同級生が多くやりにくさもあるというが、オーケストラとも親密な関係を築いており今後の共演も期待される。
オペラではジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディなどイタリア物が中心だが、リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー、アントン・ブルックナー|ブルックナー、アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルクなどのドイツ物をも得意をとするイタリア人指揮者。
30代前半にしてマーラーの交響曲第10番(クック版)でウィーン・フィルに定期に初登場した。ラトルに次ぐ極めて独創的かつ衝撃的な指揮ぶりは大いに注目されている。
実質的な首席指揮者
首席指揮者
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世は、マルチタレントともいうべき音楽家で、優秀なヴァイオリニスト、そして宮廷歌劇場における有能なバレエ指揮者、およびオペレッタの作曲家であった。彼は宮廷歌劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の指揮者を練習なしで受け持った時、大した混乱もなく最後まで振り通すことができた。
しかし作曲家としてはその題材に無頓着な面があった。父ヘルメスベルガー1世がある人から「あなたの息子さんの最新のバレエ作品があまりにもモーツァルトと似ている」と指摘された時、ヘルメスベルガー1世は微笑みながら「あなた、彼が真似するにふさわしい作曲家が他にいるでしょうか」と答えたという。近年ヘルメスベルガー2世の作品がニューイヤーコンサートにおいて採り上げられるようになり、2002年に演奏された「悪魔の踊り」は大きな話題になった。
フルトヴェングラーはベルリンでの活動を主体にしていたとはいえ、客演指揮者制に移行した後も彼の死までウィーン・フィルの事実上の首席指揮者であった。
フルトヴェングラーの天才的な指揮に関して楽員から異論が唱えられることはほとんどなかったが、ヨハン・シュトラウスのワルツについては別であった。ある時、アンコールで演奏される『皇帝円舞曲』をフルトヴェングラー流の仰々しい演奏ではなく、ウィーン風に演奏しようと楽員で申し合わせ、実際そのとおりにしてしまった。後で良心の呵責を感じた楽員から感想を求められたフルトヴェングラーは「素晴らしい。いずれにせよ私は君たちが弾いたように指揮したのだから」と語った。
フルトヴェングラーはリハーサルでも常に全力投球で臨んだが、その姿勢はウィーン・フィルの楽員とは根本的に異なっていた。練習中の楽員たちのやる気のない態度(もちろん他の指揮者も悩まされる)に怒り狂い、しばしば練習場を飛び出してしまうことがあったが、幹部たちに宥められて戻ってきた時こう語ったという。「ベルリン・フィルは練習が最も良くて、ウィーン・フィルは本番が一番良い」
戦後はEMIによりこのコンビのスタジオ録音が数多く行われ、その数は「本妻」であるベルリン・フィルとのものを遥かに上回る数となっている。特に第3番「英雄」を筆頭とするベートーヴェンの交響曲の数々は、まさに時代を超えた不朽の名盤である。
ウィーン楽壇の寵児であるクラウスとウィーン・フィルの関係は決して相思相愛とは言えなかったが、第二次世界大戦の終局で空襲の激しいウィーンに残り、楽員と行動を共にした指揮者はクラウスのみであった。クラウスが1939年から始めたニューイヤーコンサートは現在最も世界的に有名なクラシックのコンサートとなっている。ヨハン・シュトラウス、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナー、モーツァルトを得意とするレパートリーはウィーンフィルと最も合致し、現在のところ(おそらく今後も)最後の首席指揮者となっている。
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カール・エッケルト 1854年-1857年 首席指揮者 ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター 1875年-1882年 ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 1901年-1903年 ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世は、マルチタレントともいうべき音楽家で、優秀なヴァイオリニスト、そして宮廷歌劇場における有能なバレエ指揮者、およびオペレッタの作曲家であった...
