ルネサンス建築の知識

歴史


初期ルネサンス

ルネサンス最初の建築家として名を挙げられるのは、フィリッポ・ブルネレスキである。ただし、彼のデザインは古典主義建築と呼べるものではなく、その着想は11世紀から12世紀にかけてのトスカーナ地方固有のロマネスク建築にある。彼が最初に設計した捨子保育院(オスペダーレ・デッリ・イノチェンティの細いアーチを連続させるファサードは、フィレンツェのサン・ミニアト・アル・モンテ聖堂ないしはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|サン・ジョヴァンニ洗礼堂のモティーフであり、また、後に設計を行ったサント・スピリト聖堂、サン・ロレンツォ聖堂の内部空間についても、やはりフィレンツェにあるサンティ・アポストリ聖堂と比較すれば類似性は明らかで、全体の性格はロマネスク建築のものと言える。

それにも関わらず彼がルネサンス最初の建築家とされるのは、それまでの建築・設計が石工たちの伝統と経験、想像力を頼りに行われていたのに対し、ブルネレスキはローマ建築の構造を研究し、これに数学的比例を組み合わせるなど、学芸的なアプローチを採たことにある。捨子保育院ではローマ建築のモティーフをペディメントや柱に取り入れ、サント・スピリト聖堂では、身廊の高さ・幅、側廊の高さ・幅など、内部空間を比例関係によって構成し、ルネサンス建築特有の静的な秩序を表現した。その名声を世に知らしめたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム構造では、ゴシック様式|ゴシック建築の尖頭ヴォールトを応用、ローマ建築の建設方法を応用して、足場を設けない二重ドーム構造を提唱し、ドームの建設を可能にした。

彼のこうした建築理念は、ルネサンス最初の完全な有心型教会堂、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂に現れている。この建築は1437年に工事が中断したため未完となったが、その有心性や厚い壁をえぐった壁龕、八角形プランを覆うドームは、ロマネスク建築との関連性を完全に断っており、ローマ建築に対する指向を伺わせる。ウィトルウィウスの著作から、古典主義建築に必須の要素であるオーダーの比例理論を抽出し、これにはじめて論理的な説明を加えたのは、レオン・バッティスタ・アルベルティである。

彼はあらゆる芸術と文学の教養を修めた人物であるが、それまで、彼のような学者が建築に対して何らかの意味を見いだそうとすることはまれであった。しかし、アルベルティは1443年頃からウィトルウィウスの『建築について』に注目し、これに倣って『建築論』をまとめ、建築の本質が哲学、数学、考古学にあるとしてその重要性を提示した。彼が特に注目したのは人体比例と建築比例を同一のものとする文章で、あらゆる比例関係の基本が人体の形にあるという概念は、ルネサンス建築の根本原理となった。『建築論』は1452年までには一応完成したが、アルベルティは死に至るまで手を入れており、印刷されるのはようやく1485年になってからである。

アルベルティは著作だけでなく建築の設計をも行い、三次元的に自身の理論を証明した。パッツォ・ルチェッライは、正面にローマのコロッセオの構成を用い、付柱(ピラスター)によって鈍重な壁面を分節しているが、これはオーダーを全面的に使用した最初の試みである。同時期に、リミニのサント・フランチェスコ聖堂をテンピオ・マラテスティアーナに改装する設計では、正面にローマの凱旋門|コンスタンティヌス記念門とリミニの凱旋門|アウグストゥス記念門の構成を組み合わせ、古典主義による教会堂正面の計画に道を開いた。

しかし、アルベルティは盲目的にローマ建築を模倣したわけではなく、このような構成を用いて全体の調和を一致させることに美の本質があると考えた。彼の最後の作品となったサンタンドレア聖堂は、1470年頃に設計された最も影響力の大きな作品である。伝統的なラテン十字型平面を持つこの聖堂は、堂々としたトンネル・ヴォールトを持つ身廊を建造するためにブルネレスキが設計したバシリカ形式を採用しておらず、このため内部はより一層古典的な形態になった。正面は、テンピオ・マラテスティアーナと同じくローマの凱旋門をモティーフにしているが、その比例と構成は内部の身廊を囲む壁面にも繰り返されており、建築全体を一定の調和によって統一している。ブルネレスキの設計は、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオに継承されており、パラッツォ・メディチ・リッカルディの中庭には捨子保育院のファサードの影響が見られる。アルベルティの実作は直接模倣されたものがわずかだったため、その影響をたどるのは難しいが、彼の人間性と建築論は絶大な影響を与えることになった。

教皇ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世はアベルティの影響を受け、アルベルティの助手であるベルナルド・ロッセリーノを雇い、ピエンツァのパラッツォ・ピッコロミーニの建設において、自身も建築の設計に参画した。全体としては、どちらかというとゴシック的関心の強い、曖昧な古典主義だが、パラッツォ・ピッコロミーニ正面におけるアルベルティの影響は歴然である。 ウルビーノで、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがピエロ・デラ・フランチェスカ、ルチアーノ・ラウラーナ、そしてフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニに設計させたパラッツォ・ドゥカーレは、建設に際してアルベルティの助言もあったと思われる。特に宮殿の中庭は、初期ルネサンスの最も素晴らしい中庭とされる。彼の影響はローマにも及び、ジャコモ・ダ・ピエトラサンタやメーオ・デル・カプリーノ・ダ・セッティニャーノらの設計した教会堂にそれは現れているが、特にパラッツォ・デッラ・カンチェッレリーアは、アルベルティの考えを理解し、拡張した優れた建築である(ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリによればドナト・ブラマンテの手によるものとされる)。ブルネレスキとアルベルティの手法は、最終的にジュリアーノ・ダ・サンガッロによって引き継がれた。彼は初期から盛期にいたるルネサンス建築の継承者であり、フィレンツェのほかローマでも設計活動を行った。ポッジョ・ア・カイアーノのヴィッラ・メディチやプラートのサンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂のほか、ベネディット・ダ・マイアーノ、イル・クローナカと共にパラッツォ・ストロッツィを設計している。しかし、その設計手法は15世紀末にはすでに保守的なものと見なされ、16世紀初頭にサン・ピエトロ大聖堂の再建が行われる際には、ドナト・ブラマンテに遅れをとった。

盛期ルネサンス


フィレンツェで開花したルネサンス建築が成熟するのは、1450年頃から1499年までスフォルツァ家によって支配されたミラノ、そしてフランス軍によるミラノ占領の後、ブラマンテが移り住んだローマにおいてである。1450年以降、スフォルツァ家がフィレンツェと同盟関係を結んだことによって、それまでゴシック様式の段階に留まっていた都市には、まずミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、アントニオ・フィラレーテ、ジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオらによってルネサンス建築が取り入れられた。当時のミラノにはまだ多くのローマ建築の遺構が遺っていたらしく、これらがルネサンス建築の発展に果たした役割は大きいと考えられている。しかし、これらの遺物があるにもかかわらず、初期のルネサンス導入にあたっては、職人たちの間にかなりの抵抗があり、彼らが設計したポルティナーリ礼拝堂、オスペダーレ・マッジョーレ、コッレオーニ礼拝堂などは、かなりの修正が加えられ、結果的にルネサンスとは言えない建築に改変された。
ルネサンス建築の本格的な導入は、1481年頃に、ドナト・ブラマンテとレオナルド・ダ・ヴィンチという二人の芸術家がこの街に滞在したことによって始まる。ブラマンテは1477年頃にサンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティロ聖堂の建設で建築の仕事をはじめており、レオナルドは、スケッチなどから1480年代に建築に関心を持つようになったと考えられる。彼らは相互に影響を与えあい、1492年には、ブラマンテの設計によるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂東部が起工され、その食堂ではレオナルドが盛期ルネサンス最初の作品とされる『最後の晩餐』に着手した。

レオナルドは、人体解剖を行う際に用いた技術的な素描を建築分野に応用し、鳥瞰図などを用いた実用的な設計製図を導入することに寄与した。彼の関心は数学的比例あるいは工学的部分であって、美学的な要素や古代の遺構についてはほとんど興味を持たなかったようである。また、彼はブルネレスキやアルベルティの建築もあまり知ってはいなかったようである。しかし、ブラマンテの初期の設計方法が遠近法的観点(絵画の手法を応用したもの)であったこと、そして、その後のブラマンテの建築を思慮に入れると、レオナルドの機械的で思索的な概念は、ブラマンテの設計手法に大きな影響を与えたと考えられる。レオナルドの建築のスケッチには、ブラマンテのサン・ピエトロ大聖堂の平面を想起させるものもあり、レオナルドがブラマンテを通してルネサンス建築に与えた影響は、大きいと言える。1499年、フランスに占領されたミラノからローマに避難したブラマンテは、教皇ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世に召し抱えられた。彼は、ローマからカンパニア州|カンパーニアに渡って残る遺跡の実測を精力的に行い、これらの遺構と自らの想像力を駆使して、聖ペテロの殉教地(と伝えられる場所)に立つサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会|サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂の サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会#テンピエット|テンピエットを設計した。後世の多くの建築家は、このマルティリウムを古代ローマの偉大な建築と同等のものと見なした。彼はテヴェレ河畔にあるウェスタ神殿(本来はヘラクレス・ウィクトル神殿であるが)を拠り所としたのであるが、その単純な模倣ではなく、英雄的な神の神殿に用いられたオーダー|ドリス式オーダーを使って使徒聖ペテロにふさわしい古典的な形態を与えた。つまり、ブラマンテはローマ建築をその想像力によって拡張させ、ルネサンス建築が古典建築の手法を完全に再生したと信じさせるにたる美学を確立したのである。ブラマンテの壮大さはインノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世が建設したヴィッラ・ディ・ベルヴェデーレとヴァティカーノ宮殿を結ぶ宮殿の増築においても遺憾なく発揮された。ブラマンテはその中庭にパレストリーナのフォルトナ・プリミゲニア神域のモティーフを取り入れ、壮大なファサードをデザインした。しかし、ブラマンテのデザインは、後世の増築などによって、今日ではほとんど分からなくなっている。邸宅については、もうひとつ主要な作品が伝えられる。1517年にラファエロ・サンティが購入した通称「ラファエロの家」ことパラッツォ・カプリーニである。こちらも現存はしていないが、文献と図版から知られるその構成は、1階をルスティカとし、2階のピアノ・ノービレを、ペディメント付きの開口部とオーダーで装飾したもので、以後の邸宅建築はほとんど全てこのデザインを模倣または下敷きにしていると言っても過言ではない。
ブラマンテがユリウス2世とともにサン・ピエトロ大聖堂の再建計画を練ったのは1505年頃から死に至る1514年までの間である。基石は1506年に置かれはしたが、旧聖堂はすでに1000年以上の歴史を持ち、それ自体が神聖視されていたため、再建行程は困難を極め、また慎重に行われた。ブラマンテの計画案は、ウフィッツィ美術館に収蔵されている、いわゆる「羊皮紙プラン」と呼ばれるもので、これは完全なギリシャ十字|ギリシア十字平面であった可能性が高い(発見されたメダルの立面図からそのように推定されている)。工事はブラマンテによってドームを支える四本の主柱の位置とこれに架けるアーチが決定され、実行されたが、「羊皮紙プラン」の構造体では強度が全く足りなかった。さらにブラマンテの死去によって、建設は完全に混乱に陥り、ブラマンテの死後、作業は20年以上もほとんど進展しなかった。

ブラマンテの死後、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となったのは、彼の理念を継承したフラ・ジョコンド、ラファエロ・サンティ 、バルダッサーレ・ペルッツィ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネである。ラファエロはブラマンテのもとで設計を行い、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂やサンテリージョ・デッリ・オレーフィチ聖堂など、ブラマンテのものとされるいくつかの建築について、彼の名が結び付けられている。サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のキージ家礼拝堂では、純粋な形態のなかに装飾の豊かさを見ることができ、盛期ルネサンスに女性的な繊細さと優雅さを与えたラファエロの嗜好が現れている。

サンガッロが設計し、1518年に起工したモンテプルチアーノ近郊のマドンナ・ディ・サン・ビアージョ聖堂は、さらにブラマンテの直接的な影響を見ることができる。ほとんと同じ平面構成でありながら、彼の兄ジュリアーノ・ダ・サンガッロの設計したプラートのサンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂と比較すると、初期ルネサンスと盛期ルネサンスの違いは明確である。

しかし、彼らの誰もブラマンテの巨人的な壮大さについていくことができず、ミケランジェロが計画に参加するまで、工事は混迷し、まったくはかどらなかった。

後期ルネサンス


1520年頃から1620年頃の、いわゆるマニエリスムとよばれる運動には明確な定義があるわけではないが、これは明らかに盛期ルネサンスとは異なる現象である。もともと、マニエリスムとは16世紀中期の特に絵画芸術を指して半ば侮蔑的に与えられた呼称であった。調和比例を重視したそれまのでルネサンス建築の伝統にあって、マニエリスムは故意の不調和と対立、そして自意識過剰性が特徴とされるが、マニエリスムと呼べる範囲については議論があり、必ずしも明確ではないので、一般的には様式として定義されていない。

建築においては、ジュリオ・ロマーノやミケランジェロ・ブオナローティ、そして彼らの追従者の建築はマニエリスムと言えるだろうが、サンソヴィーノの建築はマニエリスムとは呼べず、パラーディオは意識して設計をおこなったときにのみマニエリストである。ここでは北イタリアの建築をブラマンテの理念を直接的に継承しているという意味でマニエリスム建築とは異なる現象として記述する。

マニエリスム

ジュリオ・ロマーノは、実質的にラファエロの後継者と言える人物で、彼の最後の建築であるパラッツォ・マダマの製作にも携わった熟練芸術家であった。彼もまたローマ建築を熱心に観察していたと思われるが、実際に設計された建物を見ると、ブラマンテとは全く違うアプローチでローマ建築を参考にていることが分かる。

ジュリオ・ロマーノは、1524年にマントヴァのゴンザーガ家に召還され、パラッツォ・デル・テの設計に携わった。正面ファサードと中庭側のファサード、そして庭園側のファサードは、それぞれ同一のリズムを刻みながら全く異なったモティーフでデザインされており、機知に富んでいる。また、「巨人の間」は、絵画と建築、彫刻を融合した劇場的なイリュージョンを演出しており、ジュリオ・ロマーノの芸術的な感性の高さを物語っている。こうした意匠はローマ建築をよく知る教養人のみを意識したものであり、主題にひねりを加える玄人受けする要素は、ブラマンテのような主題を明快かつ重々しく表現する手法とは正反対である。ジュリオ・ロマーノとミケランジェロに交流はなかったが、複雑で装飾的、かつ奇抜な芸術作品は二人に共通する特質である。ミケランジェロは、その卓越した才能で、それまで培われた比例やオーダーの規則といったルネサンスの伝統的形態から自由な建築を創造した。
ミケランジェロは、建築と彫刻を分離できない全体要素として構想し、これをサン・ロレンツォ聖堂の新聖器室、ロレンツォ図書館で試みた。両者ともにミケランジェロがローマに出立した1534年までに完成せず、未完のまま残され、1550年代になってジョルジョ・ヴァザーリとバルトロメオ・アンマナーティによって完成されたものだが、彼らはミケランジェロの意図に忠実な仕事を行った。端的に言うと、ミケランジェロはアルベルティやブラマンテの古典主義とは決定的に異なり、比例やオーダーの規則に束縛されなかった。奇妙なオーダー、柱を支持する持送り、盲ニッチ、などの形態は、それまでのルネサンス建築で規範とされたことを無視するものである。また、ロレンツォ図書館では前室を小さな正方形としたが天井は高く設計したのに対し、図書館部分は長く広く設計して低い天井をとるなど、空間そのものの効果をも演出した。

ローマに召喚されたミケランジェロは、ユリウス2世の墓標と『最後の審判』の作成に手を取られ、サン・ピエトロ大聖堂の設計に介入することはなかった。彼がローマに着いた時、大聖堂の主任建築家はアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネであった。アントニオは当時ローマを代表する芸術家であり、彼の大聖堂のデザインはブラマンテ案を忠実に再現しようとする試みが随所に見られるが、それに成功しているとは言えず、ミケランジェロはこれを「牛の放牧場」と揶揄した。アントニオの死後、紆余曲折を経て大聖堂の主任建築家の地位はミケランジェロに一任された。高齢のため、彼はそれを望まなかったようであるが、死に至るまでその設計に精力を傾け、工事の大部分を完成させた。ミケランジェロはブラマンテの後継者によって大幅に改編されたプランを本来の集中形式に戻し、それまで行われていた工事の一部を破壊して規模を縮小することで、ドーム架構の構造的問題の解決と工期の大幅な短縮を促した。ドームに到達した時点で、ミケランジェロが死亡し、工事はジャコモ・デッラ・ポルタとドメニコ・フォンターナ、そしてヴィニョーラによって引き継がれた。

サン・ピエトロ大聖堂に携わる一方で、ミケランジェロはパラッツォ・ファルネーゼとカンピドリオ広場(両者とも1546年頃)、ディオクレアヌス浴場のサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂改装の設計も行っている。ミケランジェロは、ルネサンスの規範を故意に無視し、様々な手法を組み合わせて独創的な空間を作り上げたが、その効果は彼自身の力量によるところが大きい。ジョルジョ・ヴァザーリは、ミケランジェロの意匠が非常に素晴らしいものであることを認めたが、同時にそれを才能のない芸術家が真似ることを警戒した。しかし、ミケランジェロ自身の作風はあまりに個性的すぎ、また彼に追従することのできる芸術家がいなかったため急速に廃れ、代わってジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラの作風が流行した。ローマ略奪の後、16世紀半ばにようやくローマの建築活動は息を吹き返し、アントニオ・ダ・サンガッロやジャコモ・デッラ・ポルタ、バルトロメオ・アンマナーティ、ジョルジョ・ヴァザーリといった芸術家が活動を再開した。ミケランジェロがあまりにも偉大であるため、彼ら、とりわけヴィニョーラは影の薄い存在になっているが、ヴィニョーラもまた、当時の建築活動の際最も大きな影響を与えた人物のひとりである。

ヴィニョーラは、ローマ建築の素描をおこなうことから建築に携わるようになり、ミケランジェロとは違って古典建築のモティーフをいかなる建築にも当てはめることができるような、つまり古典的要素の一般化を行うことから出発した。彼は、アンマナーティ、ヴァザーリとともにヴィラ・ジュリアの設計を行い、中庭の扱い方などにブラマンテのベルヴェデーレのモティーフを取り入れたが、直線的な正面ファサードに対して庭園側の正面はえぐれたような曲線を取り入れて両者を鋭く対照させている。ヴィテルボ近郊にあるヴィッラ・ファルネーゼは、元来は本格的な城郭であったが、ヴィニョーラはアントニオ・ダ・サンガッロとバルダッサーレ・ペルッツィの設計した五角形平面をそのまま踏襲し、上部構造と円形の中庭部分の設計に携わった。中庭のデザインは、やはりブラマンテのベルヴェデーレのモティーフを使い、内部の螺旋階段などは洗練された精神を感じさせる。両者ともにブラマンテのデザインを取り入れているが、ブラマンテの大規模な建築と比べると、小振りではあるが優雅であると言える。デザインは適度に抑制されており、ミケランジェロのそれに比べると、たしかに模倣しやすかったであろう。

彼が後世に与えた最も大きな影響は、オーダーの標準的なテキストとなった著作『5つのオーダー』と、イエズス会の本部があったジェズ教会のデザインである。ジェズ教会は、アルベルティのサンタンドレア教会のプランとサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードに由来するもので、その原案はミケランジェロの手による。現在に見るファサードはジャコモ・デッラ・ポルタにより修正を受け、内部装飾は17世紀後期と19世紀に改修されて原案の通りではなが、平面はヴィニョーラの設計で、アルベルティのサンタンドレア聖堂と同じヴォールト天井を採用したラテン十字平面である。会衆に対する説教に合わせた大きさに設計されており、以後イエズス会の布教活動の発展とともに世界中で模倣された。

北イタリアの後期ルネサンス建築


ローマで展開された盛期ルネサンスは、ローマ略奪などの中央イタリアの混乱により、ジェノヴァ、ミラノ、ヴェネツィアなど、政治的に安定した北イタリアに継承された。特にヴェネツィアでは、マニエリスムの影響を殆ど受けず、16世紀初期に最も主導的な活動を行ったヤーコポ・サンソヴィーノは、ブラマンテ風の偉大な様式を表現した。彼の代表作であるサンソヴィーノ図書館(サン・マルコ図書館)は、ヴェネツィアの最も印象的な風景を形成している。ヴェローナのミケーレ・サンミケーリは傑出した軍事エンジニアであり、いくぶんマニエリスムの、特にパラッツォ・デル・テからの影響を受けている。それは年を負うごとに顕著になっていくようにみえるが、パラッツォ・ベヴィラックァのデザインはラファエロの家を規範としたものであるし、マドンナ・ディ・カンパーニャ聖堂のデザインは、テンピエットを基調としたものである。これらを考察するかぎり、彼は本質的には常にブラマンテの思想に忠実であった。アンドレア・パラーディオもまた、一時的にはマニエリスム(特にミケランジェロ)に傾倒した。彼はブラマンテとの直接的なつながりは持たなかったが、ローマ建築とブラマンテの建築を独自に研究し、ウィトルウィウスの比例理論を再構築した。彼の建築手法は数学的調和を基調とし、対称性を重視するもので、その建築理論は『建築四書』に収められている。ヴィラ・ロトンダやバシリカ・パラディアーナは、彼の考古学的知識とルネサンスの伝統的様式が見事に混淆したものである。ヴェネツィアに建設された晩年の傑作、サン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂とイル・レデントーレ聖堂は、光の取り入れ方や空間構成は簡素で優しい。マニエリスムの芝居がかった空間とは対照的である。彼の作風は、後にパラーディオ主義として、イギリスの建築に大きな影響を及ぼした。

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テアトロ・オリンピコ(アンドレーア・パッラーディオ ヴィチェンツァ 1579年設計・1583年完成)出典・脚注参考文献 ピーター・マレー著 桐敷真次郎訳『図説世界建築史 ルネサンス建築』(本の友社)ISBN 9784894391550 ジョルジョ・ヴァザーリ著 森田義之監訳『ルネサンス彫刻家建築家列伝』(白水社)ISBN 9784560039304 ニコラス...

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