ロマン派音楽の知識

ロマン派音楽の沿革


源流(1780-1815)


文学においてロマン主義の時代は、1770年代もしくは1780年代にドイツにおいて、「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動とともに始まった、としばしば言われている。それに影響を与えたものは、ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピアの戯曲やホメロスの詩、民族的な神話(と伝えられるもの)だった。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテやフリードリヒ・フォン・シラー|シラーのようなドイツの作家が急激に態度を改める一方、スコットランドでは、ロバート・バーンズが民謡を書き留めようとしていた。この文学運動は、「古典派音楽」の時代の作曲家にもさまざまなかたちで影響し(モーツァルトのジングシュピールもその一つである)、芸術的な表現において兇暴性を募らせていった。しかしながら、たいていの作曲家が宮廷音楽家である限り、王侯貴族の庇護を受けるためには、「ロマン主義と謀叛」にかかずることはできなかった。モーツァルトが、《フィガロの結婚》が革命的であると非難され、上演にてこずったのがまさしくそれであった。純粋に音楽的な意味においてさえ、ロマン派はその基本的な実質を、古典派の慣習体系から引き出していた。古典派の時代は、作曲や演奏の基準が増していき、音楽の標準となる形式や内容が作り出された時期である。E.T.A.ホフマンが、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンのことを「ロマン主義の3大作曲家」と呼んだのも、故ないことではない。古典派の時代における最も決定的な(ロマン派音楽の)萌芽は、半音階技法と、和声的な曖昧さである。古典派の主立った作曲家はみな、曖昧な和声法や、長調と短調を慌しく行き交う手法を用いて、真の主調を伏せている。その最も有名な例の一つが、ハイドンのオラトリオ《天地創造》の開始における「音楽的カオス」である。だがしかし、これらの脱線にもかかわらず、楽曲において緊張状態となったものは、アーティキュレーションのかかった楽節、属調や近親長調への移動、そしてテクスチュアの透明性である。1810年代までに、半音階技法と短調の利用や、より多くの調を通って、より低い音域へと向かっていこうとする願望は、よりはっきりとオペラに手を伸ばす必要に結び付けられた。後にこのような音楽運動の中心人物と見なされたのはベートーヴェンであったのだが、主題の素材により半音階的な進行を取り入れようとした当時の趣味を実際に代表するのは、ムツィオ・クレメンティ|クレメンティやルイ・シュポーア|ルートヴィヒ・シュポーアであった。より多くの「音色」の要望と、古典的な形式感の要望は、互いに矛盾するものであり、音楽を破綻させるものだった。その反動の1つが、オペラへの動きであった。オペラでは、たとえ形式的なモデルがない箇所でも、台本が構成を示してくれるからである。E.T.A.ホフマンは、今日では専ら批評家として著名であるが、当時は歌劇《ウンディーネ》(1814年)によって、音楽における過激な改革者と見なされていた。破綻に対するもう1つの反動は、性格的小品への動きである。中でも新奇な小品の1つが夜想曲であった。夜想曲では、和声の密度それ自体が音楽を先に進める推進力となっているのである。

初期ロマン派音楽(1815-1850)


1810年代までの、楽曲素材に対する新たな変化は、旋律中における半音階のいっそうの利用や、より表情豊かな和声法への要求と並んで、一目瞭然の変化となった。ナポレオン以後のヨーロッパという新しい環境に対して、訴求力を持つことのできた作曲家にとって、舞台は設定されたのである。これらの作曲家の第一波は、概ねベートーヴェンやシュポーア、ホフマンのほか、カール・マリア・フォン・ウェーバーとフランツ・シューベルトであった。これらの作曲家は、18世紀後半から19世紀初頭までの演奏界の劇的な急成長のさなかで育っているのである。ベートーヴェンが、大勢から従うべき模範としてとして認められたが、クレメンティの半音階的な旋律や、ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニやエティエンヌ=ニコラ・メユール|メユール、ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニの目映いオペラ作品も影響力をもっていた。それと同時に、中産階級にとって自宅での音楽活動が家庭生活の重要な部分となりつつあったため、民族詩への曲付けや、ピアノ伴奏歌曲の作曲は、作曲家の新たな(そして重要な)収入源となった。このようなロマン主義の波において重大な作品は、ウェーバーの一連のロマンティック・オペラ(《オベロン》《魔弾の射手》《オイリアンテ》)や、シューベルトの連作歌曲と交響曲である。シューベルトの作品は、当時は聴衆の前での演奏が限られていたが、次第に衝撃力を広げていった。対照的に、ジョン・フィールドの作品はすぐ有名になった。部分的には、フィールドがピアノのための性格的小品や舞曲を創る能力に恵まれていたからである。ロマン派の作曲家の次なる一団は、エクトル・ベルリオーズ、フェリックス・メンデルスゾーン、フレデリック・ショパン、そしてフランツ・リストである。みな19世紀の生まれであり、初期の経歴から永久不滅の作品の創作にとりかかっている。メンデルスゾーンはとりわけ早熟であり、2つの弦楽四重奏曲や弦楽八重奏曲、演奏会用序曲《夏の夜の夢 (メンデルスゾーン)|夏の夜の夢》を完成させたのは、まだ10代のうちであった。ショパンはピアノ曲の作曲に集中しようとしていた初期に、2つのピアノ協奏曲と練習曲集を完成させており、ベルリオーズはベートーヴェン以後で最も重要な交響曲の先駆け《幻想交響曲》を完成させている。また同時に、今日「ロマンティック・オペラ」と呼ばれている音楽は、パリや北部イタリアとの強力な関係によって成立した。フランスの超絶技巧のオーケストラと、イタリア風の声楽の旋律線や劇的な燃焼力との結合は、原作を大衆文学からとる傾向と相俟って、今なおオペラの舞台に君臨し続けているような、感情表現の1つの規範となっている。ヴィンチェンツォ・ベッリーニやガエターノ・ドニゼッティが、この頃すこぶるつきの人気であった。ロマン主義のこのような局面についての重要な視点は、ピアノの演奏会(リストの用いた言葉を借りるなら「リサイタル」)の幅広い人気であった。当時のリサイタルは、人気のある主題による即興演奏や、性格的小品|小品、ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタなどの大作から構成されていた。最も重要なベートーヴェン弾きは、後のシューマン夫人クララ・シューマン|クララ・ヴィークであった。鉄道や蒸気船によって旅行が簡便になると、リストやショパン、タールベルクといったピアノのヴィルトゥオーソは、演奏旅行の回数を増やし、国際的な聴衆を獲得した。演奏会はそれ自体が事件となった。ヴィルトゥオーソ現象の先駆者こそ、かのヴァイオリンの巨匠ニコロ・パガニーニだったのである。1830年代から1840年代にかけて、ロベルト・シューマン、ジャコモ・マイヤベーア、ジュゼッペ・ヴェルディ青年らを含む音楽的な世代が、花盛りの時期を迎えた。特筆すべきは、「ロマン主義」や、あるいは当時の音楽活動で主流の様式ですらあった、パリ音楽院が手本となったポスト古典主義様式だけでなく、宮廷音楽までもが、演奏会のプログラムを左右していたことである。これが変化するようになるのは、交響楽団のような団体による定期公演の隆盛によってであり、その流行を促したのは、ほかならぬメンデルスゾーンであった。音楽は半ば宗教的な経験と見なされるようになり、「楽友(フィルハーモニー)」協会が演奏会の一部となって、前時代の演奏界とは対照的に、形式ばった態度がとられた。リヒャルト・ワーグナーが最初に成功したオペラを制作し、「楽劇」という概念に至る構想を大胆に膨らませるようになったのもこの時期である。自称革命家で、つねに債権者や為政者とトラブルを抱えたワーグナーではあったが、身の回りに馬の合う音楽家を集め始めた。そのひとりがフランツ・リストであり、両者はともに、「未来の音楽」の創出へと没頭した。文字通りの「ロマン主義」は、大雑把に見ると、ヨーロッパ情勢を一変させた1848年の「1848年革命|革命の年」をもって終息する。パガニーニやメンデルスゾーン、シューマンらの逝去や、リストのリサイタルからの引退に加えて、「写実主義」のイデオロギーの高まりとともに、音楽活動の新しい波が訪れた。この新しい波については、詩や絵画の場合と同じく、ロマン主義というより「ヴィクトリア朝文化」と位置付けるべきだと論じる向きもあるが、今のところ主流派にはなっていない。その代わりに、19世紀後半の音楽については、「盛期(または後期)ロマン主義音楽」と評されている。

後期ロマン派音楽(1850-1910)


19世紀も後半になると、ナポレオン以降の時代に向かう動きを舞台とする、社会的・政治的・経済的な変化の多くが、定着するようになった。電信技術や鉄道が、ヨーロッパをかつてないほどに近づけたのである。19世紀初期のロマン派音楽の重要な特徴であったナショナリズムは、政治的・言語的な手段によって公式化された。中産階級の読書家をねらった文芸作品は、出版活動の固定や、主要な文学形式としての小説の振興につながった。19世紀前半の登場人物は多くが引退するか薨去し、あるいは音楽活動の最終段階を迎えていた。残りの者は、定期的な演奏活動や、利用しやすい経済的・技術的な資源を利用して、新たな方向に突き進んだ。半世紀にわたって楽器の改良が加えられ、ヴァイオリンやヴィオラの顎当て、バルブ式の金管楽器、ピアノのアクションの二重エスケープメントは、新奇なものから標準的なものへと変わっていった。音楽教育の機会の劇的な増加は、ピアノや洗練された音楽活動にとっては、より幅広い聴衆の増加を意味するようになった。音楽院や音楽大学の設立は、多くの音楽家にとって、自前の財力を宛てこんだ興行主となることよりも、他人に教えることによって、安定した活動を続けられる中心的な場をもたらした。以上の変化の頂点は、交響曲や協奏曲・交響詩といったジャンルの巨大な波や、パリ、ロンドン、イタリアにおけるオペラ公演の拡大を見ることになる。後期ロマン派音楽は、特定の国々で民族音楽や民族詩と結びついた民族様式(国民楽派)が登場し、重要な作曲家を巻き込んでいった。音楽論においては、「ドイツ様式」とか「イタリア様式」といった概念が、長きにわたって確立されていたが、19世紀になって振興を見たのは、グリンカに始まり、モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキーやアレクサンドル・ボロディン|ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ、ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキーへと受け継がれた、ロシア様式(ロシア国民楽派)だった。同様の流れは、チェコ(ベドルジハ・スメタナ|スメタナ、ズデニェク・フィビフ|フィビフ、アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェク、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク|ノヴァーク)やフィンランドでも見られ、普仏戦争後のフランスでは、カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンスらの指導のもとに、「アルス・ガリカ(ガリアの芸術。実際には、フランス人作曲家による器楽曲創作の振興)」を標榜する国民音楽協会が設立され、反ドイツ・ロマン派音楽を叫んだ印象主義音楽誕生の土壌となった。たいていの作曲家は、目的において民族主義者であり、故国の言語や文化に関連したオペラや音楽を創り出そうとした。民謡に興味を示したブラームスにも、民族主義的な傾向は認められる。

20世紀における動向と新ロマン主義音楽|新ロマン主義


19世紀に生まれた作曲家の多くは、20世紀に入ってからも、明らかに前時代とつながりのある作曲様式で創作を続けた。たとえば、ジャコモ・プッチーニやリヒャルト・シュトラウス、セルゲイ・ラフマニノフそしてクット・アッテルベリがそうである。しかし、モダニズムの作曲家の中にも、初期にロマン派音楽の様式を採る者は少なくなかった。アレクサンドル・スクリャービン(《ピアノソナタ第3番_(スクリャービン)|ピアノ・ソナタ第3番》、《8つの練習曲_(スクリャービン)|8つの練習曲》作品42)やアルノルト・シェーンベルク(《浄められた夜》、《グレの歌》)、バルトーク・ベーラ|ベーラ・バルトーク(《ヴァイオリン協奏曲第1番_(バルトーク)|ヴァイオリン協奏曲第1番》などのいくつかの管弦楽曲や歌劇《青ひげ公の城》)、カロル・シマノフスキ(ピアノのための《4つの練習曲》作品4)などの例がある。とはいえ、19世紀音楽の構造や表現技法は、単なる遺物というわけでもなかった。レイフ・ヴォーン・ウィリアムズやエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、1950年以降もいちじるしくロマン派的な様式で作曲し続けている。無調性や新古典主義などの新たな風潮は、ロマン派音楽の優位に挑んだものの、大作においては、調性指向の半音階的な音楽語法が顕在化している。グスターヴ・ホルスト、アーノルド・バックス、セルゲイ・プロコフィエフ、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ディミトリー・ショスタコーヴィチ、ベンジャミン・ブリテン、サミュエル・バーバー、マルコム・アーノルドらは、モダンな作曲家であるとの自覚を持っていたものの、作品においてはしばしばロマン派音楽の要素を引き継いでいた。ロマン派音楽は1960年頃、レトリックとしても芸術的にもどん底にあった。未来は前衛音楽か、ある種の新古典主義音楽とともにあるかに思われた。パウル・ヒンデミットが、いかにもロマン主義に根ざした様式へと後ずさりする中、たいていの作曲家は別の道へ進んだ。保守的なソビエト連邦|ソ連や中華人民共和国|中国のアカデミックな序列の中でだけ、ロマン派音楽がぴったりと収まったかに見えた。しかしながら1960年代の後半までに、ロマン派音楽の表現様式の復活が始まった。ジョージ・ロックバーグは、グスタフ・マーラーを模範に引き出し、音列技法から調性へと回帰した。このような試みには、ニコラス・モーやロバート・ヘルプス、デイヴィッド・デル・トレディチのような同志がいた。この動向は「新ロマン主義」とも評され、ジョン・コリリアーノの《交響曲第1番》などもその一つに数えられている。ロマン派の音楽様式が生き長らえ、むしろ栄えてすらいる分野は他にもある。映画音楽の世界である。ナチス・ドイツを逃れて米国に移住したユダヤ系作曲家の多くは、ウィーンでグスタフ・マーラーに師事したか、その影響を受けていた。マックス・スタイナーによる華麗な映画音楽《風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ》は、ワーグナーのライトモティーフとマーラーの管弦楽法を用いた実例にほかならない。「アメリカ映画|ハリウッドの黄金時代」の映画音楽は、コルンゴルトやスタイナー、フランツ・ワックスマン、アルフレッド・ニューマン、ヒューゴー・フリードホーファーらの創作に重きを置いていた。次世代の映画音楽の作曲家、アレックス・ノース、ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ、エルマー・バーンスタインらは、この伝統に従って20世紀後半を代表する映画音楽をいくつも残している。

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Notes on Franz Schubert by pianist Bart Berman ロマン派音楽は、文学・美術・哲学のロマン主義運動と関連しているが、音楽以外の芸術分野でロマン主義が1780年代から1840年代まで続いたのに対し、音楽学で慣習的に使われている「ロマン主義の時代」は、それとは異なり、古典派音楽の時代と近代音楽|近代・現代音楽の間に挟み...

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