ロマン派音楽の知識
日本におけるロマン派音楽
日本に「洋楽」が本格的に流入し、受容されたときには、すでに明治時代になっていた。ロマン派音楽の流れを19世紀を中心に考えるなら、日本の幕末から明治時代にほぼ該当することに注意すべきである。日本人がクラシック音楽としていち早くなじみ、親しんできたのがベートーヴェン以降のロマン派音楽であり、その「伝統」が今なお根強く定着していることは象徴的である。(現在ロマン派の主要な作品(協奏曲など)の本邦初演は大正時代前期から昭和時代初期(太平洋戦争前)に東京音楽学校で行われたものが多く演奏履歴は未だ100年経過していない。)また、文部省唱歌の作曲家は、多少のプロテスタント信者がまじっていたため、賛美歌の構成原理やテクスチュアが唱歌においても少なからず参照されている。瀧廉太郎はいくつかの唱歌や、ごくわずかのピアノ曲において日本的な音組織を利用しているが、一方で《花》のような作品では、ライプツィヒ音楽院じこみの、流麗で洗練されたメンデルスゾーンやシューマン以来の伝統に従っている。瀧廉太郎が日本語の抑揚と西洋的な音階を自然に一致させることに成功したことにより、日本語歌曲の歴史は豊かな未来が保証されたといってよい。山田耕筰はリヒャルト・シュトラウスやクロード・ドビュッシー|ドビュッシー、そしてとりわけアレクサンドル・スクリャービン|スクリャービンへの傾倒から、一時期モダニズムに接近しかけたものの、結局のところはロマン派音楽に回帰した。その動きは、同時代の文学界における日本浪漫主義と相通ずるものがある。瀧廉太郎に倣った東洋的な旋法と、リヒャルト・シュトラウスに影響された半音階的な和声法と凝ったピアノ書法、異国趣味を強調した題材、神秘主義は、いずれも山田が強固なまでのロマン主義者であったことを物語っている。山田は日本楽壇における長老として長らく君臨し、戦後の「三人の会」の團伊玖磨にも影響を及ぼした。團も山田と同じく近代ロシア音楽に造詣が深かったが、とりわけムソルグスキーとラフマニノフへの熱愛を告白している。合唱組曲《筑後川》などに見られる重厚な房状和音の連続は、19世紀ロシア・ピアノ楽派の影響が明らかである。ただし、器楽作家としての團は、ロマン派的な声楽作家としての團とは違った顔を持っている。別宮貞雄は東京大学|東大卒業後にパリ音楽院でダリウス・ミヨー|ミヨーとオリヴィエ・メシアン|メシアンに師事しているが、音楽的にはベートーヴェン以降のドイツ・ロマン派音楽の流れに立ち、日本における新ロマン主義音楽の旗手として、数々の調的な器楽曲を手懸けてきた。実質的なデビュー作である歌曲《さくら横ちょう》は、詩的な情緒と著しい抒情性、民族的な音組織、音楽外のテクストを示唆するピアノの伴奏において、ロマン主義の成熟したかたちをすでに体現している。<メニュー>>>
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Notes on Franz Schubert by pianist Bart Berman ロマン派音楽は、文学・美術・哲学のロマン主義運動と関連しているが、音楽以外の芸術分野でロマン主義が1780年代から1840年代まで続いたのに対し、音楽学で慣習的に使われている「ロマン主義の時代」は、それとは異なり、古典派音楽の時代と近代音楽|近代・現代音楽の間に挟み...
