近代音楽の知識
概論(日本編)
明治維新以降の西洋音楽の受容から民族主義、戦時中の動向について。日本では明治12(1879)年に音楽取調掛が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。明治14(1881)年に『小学唱歌集』初編の出版届け出がなされる。音楽取調掛を率いたのは伊沢修二だが、ほかに神津仙三郎(専三郎とも)、山勢松韻、内田彌一、芝葛鎮(ふじつね)、上眞行(うえ・さねみち)らの名を挙げることができる。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる岡倉覚三(岡倉天心)は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。さらに、米国の音楽教育家であるルーサー・ホワイティング・メーソン|メーソンの存在を忘れるわけにはいかない。メーソンは明治13(1880)年の春に来日し、明治15(1882)年の夏まで滞日し、明治国家の西洋音楽受容に一定の役割を果たしたと言える。メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。明治16(1883)年6月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していたフランツ・エッケルト|エッケルト(ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。音楽取調掛は一時音楽取調所と称されるがまたすぐに元に戻る。明治20(1887)年には東京音楽学校に昇格。のちに滝廉太郎がドイツへ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が世に出した器楽曲はメヌエット (滝廉太郎)|ピアノのためのメヌエットと憾 (滝廉太郎)|憾みの二つであった。後に滝は帰国後に多くの唱歌を作曲するが、結核により夭折してしまう。滝のあとをついで日本の洋楽シーンを牽引したのは山田耕筰である。山田はドイツに留学し日本人初のオーケストラ曲「序曲ニ長調」、ついで音詩「曼荼羅の華」、交響曲「勝鬨(かちどき)と平和」を相次いで発表する。その後指揮者としてアメリカへ渡り、また日本で初めてのオペラ「黒船」を書くなどの活動がある。明治以降日本の洋楽シーンはドイツ偏重だったが、池内友次郎はフランスに渡り、近代フランス音楽の様式を日本に持ち込んだ。諸井三郎などのドイツ派、池内友次郎などのフランス派の二大アカデミズムが東京音楽学校において日本の洋楽シーンを席巻していたが、一方で昭和に入ると松平頼則、伊福部昭、早坂文雄のように独学や東京音楽学校とは無縁の出自を持つ作曲家も現れた。彼らは戦後まもなく新作曲派協会を結成することになる。
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