古代西洋音楽の知識

初期キリスト教の音楽


  • 古代の末期に見られた初期キリスト教音楽の姿も不明である。新約聖書の「マタイによる福音書」には、キリストは最後の晩餐の後に、弟子達ともに歌を歌ったという記述がみられる。キリスト教がユダヤ教をもとに成立したことから、初期キリスト教音楽もユダヤ教の聖歌がもとにあるとの説が支配的であったが、むしろ独自性を示すために異なった礼拝があったとの考えもある。現存する最古(紀元280年)のキリスト教(東方諸教会)の聖歌とされるのはオクシリンコス・パピルスに含まれていた「三位一体の聖歌」(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されたものである。3〜5世紀になると、アルメニア、シリア、エジプト、エチオピア、ビザンツ帝国で、地方の特色と結びついた聖歌ができた。これらは、東方教会聖歌として、それぞれアルメニア聖歌、シリア聖歌、コプト聖歌、アビシニア聖歌、ビザンツ聖歌という形で現在も歌われている。しかし、現在のものが、当時の姿を正しく伝えているとは考えられない。これらの聖歌は、アラブやトルコなどの支配的な民族の影響で1500年以上もの間に大きく変化したと考えられる。恐らくは全員で同じ聖歌を斉唱している間に、歌いやすい音名に移動したのであろう。* 3世紀末頃には都市の贅沢を離れ、荒野で過酷な貧困生活を送る修行を通じて信仰を実践しようという修道院運動が盛んになった。その絶え間ない祈祷の際に、全詩篇を順番に朗唱する「詩篇連唱」の習慣が確立した。また、4世紀のエジプトにおいては、修道院の朝夕2回の聖務日課が整備され、宗教的瞑想の前提として詩篇唱が機能した。その後、教会の大聖堂内でも聖務日課の際に詩篇唱が行われるようになり、修道士(女)が演奏のために教会へ赴いた。6世紀までには教会における1日8回の聖務日課が制度化され、その中で修道士(女)が詩篇唱を聖職者は祈祷を受け持つよう、その職能によって分業化された。一方、平信徒ら(一般会衆)にとっては平日にあっては詩篇唱をただ聴くのみであったが、日曜日はともに歌うこともあったようだ。かつて、荒野の中で歌われた素朴で単純な詩篇唱は、聖堂の中で次第に旋律性豊かで甘美なものへと変化していき、熱狂的な詩篇唱ブームにつながった。* ローマ帝国下の初期キリスト教会の集会では、世俗的な晩餐の席でも音楽が親しまれていたこともあり、聖体拝領が夕べの会食時に行われて詩篇唱も同時に歌われた。その際、世俗的な音楽とは区別するために楽器による伴奏を極力排除した。4世紀には聖職者の職務としてのカントル(独唱歌手)の地位が確立した。* 初期にはローマ帝国の優れた情報伝達網によって典礼方式や聖歌の統一がある程度、図られていたと思われる。その後帝国の崩壊によって街道や情報伝達のシステムが寸断され、とくに西ローマの地域(西方教会)においては、各地で独立した多様な地方典礼へと発展していった。* 西方教会でも、南フランスのガリアでは、ガリア聖歌と呼ばれる聖歌が、スペインではモザラベ聖歌が知られている。北イタリアのミラノには、4世紀にミラノ大司教を務めた聖アンブロジウスの名を冠したアンブロジウス聖歌(アンブロジオ聖歌)、ローマにもローマ聖歌といった地方聖歌が成立した。これらの地方聖歌も現在まで歌われ続けているものがあるが、当時のものではない。地方聖歌は、やがてローマカトリック教会が力を持つと、グレゴリオ聖歌として統一されることになる(中世西洋音楽参考)。

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