第二次ポーランド楽派の知識
ポーランド楽派
終戦後、ポーランドはソビエト連邦の影響下に置かれ、いわゆる「スターリン時代」の辛酸を嘗める。そのヨシフ・スターリン没後、西側の前衛音楽の吸収に最も積極的に動いた国がポーランドであり、1950年代後半からポーランド出身の作曲家が次々と頭角を現す。1960年代には、彼らはドイツを始めとする西側の批評家を中心に「ポーランド楽派」と名付けられるに至る。ただし、「楽派」といっても、音響美を重視するという以上には彼らの間に様式上の明確な類似性があるわけではなく、その明確な定義や、含まれる作曲家の範囲は現在のところあいまいである。スターリン批判を率先して行った最初のポーランドの作曲家がヴィトルト・ルトスワフスキである。彼の「葬送音楽」(1954-1958年)は西側の前衛音楽への興味が最初に現れ、また公的に発表を許された最初期の作品である。ピアニストでもあった、1913年生まれのルトスワフスキは、既に第二次世界大戦前から創作活動を行い、2台ピアノのための「パガニーニの主題による変奏曲」(1941年)完成時には新古典主義的な独自の書法を完成させていた。この作品はアンジェイ・パヌフニクと作曲者自身のピアノで披露されており、21世紀に入っても高い人気を得ている。そのルトスワフスキは、ジョン・ケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(1958年)を聞き、作曲観が180度回転するほどの大ショックを受け、前衛イディオムから生まれる新しい個人様式への渇望を感じるようになったという。彼の個人様式を語る上で欠かせないのが「ad lib.動律」である。作品は五線譜上に通常の定量記譜法で書かれるが、「パート同士の縦の線を合わす必要はない」とされ、指揮者は入りの瞬間のみを提示し、柔軟性に富んだテクスチュアが展開される。このアイデアには、彼が捕虜収容所から数十kmの逃避行を強いられた過去が反映されている。この時期の「ヴェネチアの遊び」、「オーケストラの書」、「チェロ協奏曲」などにこの作風は強く現れている。しかし、1970年代以降はセミクラシック的作風を濃くしてゆく。また戦後、ポーランドで作曲家のホープとされたのはアルトゥール・マラフスキとグラジナ・バツェヴィチであったが、マラフスキが1957年に早逝し、バツェーヴィチがその位置に立つ形となる。彼女の作風は、前衛イディオムを新古典主義への注釈として用いており、その中でも「無伴奏ヴァイオリンソナタ」(1958年)は両者の属性が最高の形で融合した傑作とされる。ポーランド楽派を語る上で欠かせない、音楽史上の大事件はヤニス・クセナキスのデビュー(1954年)である。オーケストラを駆使して生まれる激しいグリッサンド運動、トーン・クラスターの暴力性、数学理論をあくまでも疑似科学の範囲内で援用した彼は、幸運にも一躍時代の寵児となった。賛否両論が渦巻く中、この音響美を積極的に取り入れた作曲家が、次々とポーランドから現れるのである。クシシュトフ・ペンデレツキは、1950年代末の作曲コンクール入賞独占をきっかけに、ポーランド作曲界のスターとなる。彼はクラスター内の音運動を全廃し、黒色の長方形で描かれる独特の記譜法が有名である。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」は松下眞一の助言でこの題名を付け、ペンデレツキの代表作として再演が重ねられた。その後彼の作品は宗教的な色合いを強めてゆき、前衛の時代には避けられた三和音やオクターブを積極的に取り入れ、「ルカ受難曲」で頂点を迎えた後は次第に典型化してゆく。1950年代頃のポーランド全体の文化状況は比較的好調で、作曲家の作品はほとんどがポーランド音楽出版(PWM)社から刊行され、その数も膨大であった。その当時のPWM社のディレクターはボグスワフ・シェッフェルであった。シェッフェルは、「音楽とは何か」「何が斬新か」を問いつづけ、「不屈の永久革新性」を問うあまり、ポーランド国内からの脱出を余儀なくされた。当初、ルトスワフスキ、ペンデレツキほどの人気を勝ち得ることはなかったが、前衛の時代に最も貢献したとする見解もある。グループ49の3人、カジミェシュ・セロツキ、タデウシュ・バイルト、ヤン・クレンツは60年代に作風が開花した。作曲家兼ピアニストのセロツキは活動当初から同音連打に拘るなど、音色美志向が顕著であった。ピアノ独奏のための「プレリュード組曲(1952)」のいくつかのシーンが、ポーランド初の十二音技法で作曲された作品であるとされる。そして、彼の作風を決定付けた「ドラマティックストーリー」、「フォルテとピアノ」、「カデンツァ風協奏曲」、「コンティヌーム」他で名声を決定的にした。未知の音響への興味はやがてライヴ・エレクトロニクスの実践へ繋がり、「ピアノフォニー」でクラスター音響がホール中を周回するといった音源の位置への関心を高めてゆく。新古典的書法が復活し、形式感も明解になってゆくが1981年に急逝した。活動初期にはカロル・シマノフスキに傾倒したバイルトは「ポーランドのアルバン・ベルク」と称されるほどロマンティックな語法への関心が高く、一通り前衛イディオムを学んだ後、「交響曲第三番」、「ゲーテの手紙」、「オーボエ協奏曲」、「明日」で独自の作風を確立する。クラスターを解離音程の絡み合いと解釈した独自の音響美が特徴的である。最終的には叙情的なアダージョと断定的なアレグロの二項対立の様式へ還元されていった。1970年代以降書法が穏健になってゆき、1981年に急逝した。クレンツは活動当初から指揮者としての活動のほうが顕著であり、初期のポーランド楽派の作品群は全て彼の指揮によって演奏されたといっても過言ではない。近年は作曲活動に復帰しているが、シマノフスキの「仮面劇」をオーケストラ編曲したことで知られている。ヘンリク・ミコワイ・グレツキは、「交響曲第三番」の世界的大ヒットによって知られているが、これは転向後の作風であり、楽派内で一世を風靡した時期の作品群を詳しく述べる必要がある。活動初期から衝撃音を好む異端の境地にいたが、「交響曲第一番」で特異な音響美学を提示することに成功する。1960年代に作曲された「起源」、「音楽」、「激突」、「コロスI」はいずれも甲斐説宗によって絶賛された。後年は、旋法性を重視し、宗教的及び政治的な側面を強く打ち出すようになる。「交響曲第二番」をピークとして、音響が穏やかなってゆき、瞑想的、叙情的で親しみやすい「交響曲第三番」のヒットに繋がってゆくが、その作品にもずらしカノンや特定の素材の執拗な反復など、かつての作風を偲ばせる要素がないわけではない。ミコワイ・グレツキと名づけた息子も作曲家である。ピアニスト兼作曲家のクシシュトフ・メイエルも、楽譜と音源のリリースには比較的恵まれたものの、「交響曲第三番」をピークとして、新古典的様相を色濃くしていった。「弦楽四重奏曲第二番」、「弦楽四重奏曲第三番」、「ポーランドの歌」などを生んだ全盛期には強い表現力を保っていたが、ドミートリイ・ショスタコーヴィチへの傾倒、新ロマン主義の流行を真に受けたことが、作風を回顧的なものへと変えていった。実験色が音楽の表層を覆わないようにする傾向は、初期のポーランド楽派の中ではやや異質であり、一柳慧との類似性が指摘される。ヴィトルト・シャローネクはセロツキと同じく特殊奏法の探求に熱心であったが、音の内部を顕微鏡で観察するような作風を打ち立てた。「音」の冒頭のピアノの内部奏法の扱い、「ピエルニキアーナ」のチューバへの様々なマウスピースの取り付けなどは、セロツキの効果音的用法とは趣を異にしている。ベルリンへ移住してからは教育活動が中心となったが、晩年は作曲活動に復帰した。2001年に同地で没した。前衛の時代が終わったとたん、彼らの音響は既に共有ソースになっており、もはや個性的な音響美学でもなんでもなくなっていった。多くの作曲家は、古典的な形式に回顧する傾向が見られる。彼らは数多い第一次ポーランド楽派のほんの一部に過ぎない。ヴォドジミェルシュ・コトニスキ、マレク・スタホフスキ、ツビニエフ・バルギエルスキ(ズビグニェフ・バルギェルスキ)、レオンチゥシュ・チゥチュラ、ツィグムンド・クラウツェ(ジークムント・クラウゼ、国際現代音楽協会ISCM元総裁)の名前を挙げてもまだ足りないくらいであろう。こうして、ポーランドの現代作曲家達は初めて世界的な認知を得るのである。1947年生まれのヤン・オレシュコヴィツは、その語法を継承して活躍した。直接的、間接的に影響を受けた世界各地の作曲家達は枚挙に暇がない。またソ連崩壊以前のポーランド国内の作曲を学ぶ人々にとっては、国外の近年の動向に接することが十分に出来ないことからも、多大な影響を与えた。これらの作曲家の名前を冠した「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール」、「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際チェロコンクール」、「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際指揮コンクール」、「カジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクール」、「タデウシュ・バイルト作曲コンクール(国内限定)」、「クシシュトフ・ペンデレツキ国際室内楽現代音楽演奏コンクール」(現在はペンデレツキが委員長から降りたために、コンクールの名称は変更されている)、「グラジナ・バツェヴィチ国際作曲コンクール(学生及び院生限定)」といったコンクールが開催されている。ヤン・オレシュコヴィツは後年、第2回「カジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクール」で第3位相当のZaiks作家協会賞を受賞し、ツィグムンド・クラウツェは現在もセロツキ、バイルト、ルトスワフスキなどの各作曲コンクールの審査委員長や海外主要作曲コンクールの審査員の座にある。
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